読んだ本
暇と退屈の倫理学 増補新版
國分功一郎
大田出版
2015.03
(旧版初版 2011.10 朝日出版社)
ひとこと感想
どう読むか。すんなりとはゆかないテーマ。私はこれを「動物」と比べられる「人間」の問題として読んだ。
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國分の「哲学」観は、きわめて明解だ。
「哲学とは、問題を発見し、それに対応するための概念を作り出す営みである。」(2ページ)
しかし、肝心なのは、一体どういった「問題」を発見するか、である。
そして國分はそれを「暇と退屈」とした。
今まで「暇」や「退屈」ということをほとんど感じたことのない私にとって、最初、これがどうして「問題」になるのか、タイトルで躓いた。
そう、本のタイトルとは、得てしてこの「問題」のありかを端的に語っている場合が多い。
「まえがき」で書かれている三つのエピソードもピンとこない。
・スポーツバーで流れているスポーツ番組に熱狂している自分を演じている男への違和感
・相談している本人が何を相談したいのか分からず、かつ、伝えようという努力もしないでいる違和感
・中島みゆきの曲がある番組に使われているときの違和感
これらの違和感そのものは私にでも理解できる。だがなぜこれが「暇と退屈」を「問題」として扱う本の「まえがき」に書かれているのか、それが、うまく理解できない。
続いて「序章」に進むと、今度は、「豊かさ」について、國分は語り始める。
「ここに不可解な逆説が現れる。人類が目指してきたはずの豊かさ、それが達成されると逆に人が不幸になってしまうという逆説である。」(14ページ)
これはマルクスの「人は働けば働くほど貧しくなる」という逆説と同じような意味なのだろうか。
國分の「問題」はどうやら、もっとかみ砕いていえば、せっかく暇が得られるような社会に生きているのに、どうして私たちはその暇を楽しめていないのか、ということのようである。
確かに、「暇」になってしまった人にとっては、そのなかでどうやって生きたらよいのか、「退屈」とどう向き合えばよいのか、は看過できない「問題」なのかもしれないが、なにせ私には、実感がわかない。
こうした「問い」を立てられること自体、幸福なことであるから、「問う」こと自体ができる時点で、うらやましい。
いや、それよりもこの本が多くの読者の支持を得ている、という事実は、実は國分と同じような感覚を抱いている人は決して少なくはない、ということだ。
そうか、この世(少なくともこの国)の人たちは、みな同じように見えるが、根底からこれほどまでに違うこともあるのだ、ということを本書を読みつつ痛感する。
「生きているという感覚の欠如、生きていることの意味の不在、何をしてもいいが何もすることがないという欠落感、そうしたなかでに生きているとき、人は「打ち込む」こと、「没頭する」ことを渇望する。」(30ページ)
このあと、本章に入ると、次のような展開が行われる。
1 問題構成
2 退屈の起源への人類学的検証
3 逆説的な地位をもつ(余)暇の経済史的検証
4 現代消費社会における暇と退屈
5 ハイデガーの退屈論
6 生物学からのハイデガーの退屈論の検証
7 暇と退屈の倫理学の構想
この本は私にはとてもしっくりこないのだが、同時に、妙に気になるものでもある。
ここで考察されている内容は、直接は関係ないように見えるが、実は「人間と動物との違い」への問いと重なっているのではないか、そう考えると、何やら急に、本書がとても魅力的なものに変わってゆく。
わざわざラッセルとハイデガーがほぼ同じ時期すなわち1930年頃に展開したのは、以下のような問いであった。
「職と住を確保できるだけの収入と、日常の身体活動ができるほどの健康をもち合わせている人たちの不幸」(55ページ)
これがもしネコであれば、そのまま「幸福」ということになるが、人間の場合「不幸」となるようだ。
國分も、ラッセル、ハイデガー、さらにはコジェーブの「人間と動物との違い」について言及している。
それでいながら、彼らの思惑とは正反対に、次のように、とらえている。
「人間が人間らしく生きることは退屈と切り離せない。ならば、こう考えられるはずである。人が退屈を逃れるのは、人間らしい生活からはずれたときである、と。そして、動物が一つの環世界にひたっている高い能力をもち、何らかの対象にとりさらわれていることがしばしばであるのなら、その交代は〈動物になること〉と称することができよう。」(363ページ)
コジェーブの「動物化」をこのように読み替えるのは、見事としか言いようがない。
「人間であること」を楽しむこと、そして、それと同時に、「動物になること」を待ち構えること。
まさにその通りである。
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