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暇と退屈の倫理学 増補新版 國分功一郎 大田出版 2015.03

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読んだ本

暇と退屈の倫理学 増補新版
國分功一郎 
大田出版 
2015.03

(旧版初版 2011.10 朝日出版社)

ひとこと感想
どう読むか。すんなりとはゆかないテーマ。私はこれを「動物」と比べられる「人間」の問題として読んだ。

***

國分の「哲学」観は、きわめて明解だ。

「哲学とは、問題を発見し、それに対応するための概念を作り出す営みである。」(2ページ)

しかし、肝心なのは、一体どういった「問題」を発見するか、である。

そして國分はそれを「暇と退屈」とした。

今まで「暇」や「退屈」ということをほとんど感じたことのない私にとって、最初、これがどうして「問題」になるのか、タイトルで躓いた。

そう、本のタイトルとは、得てしてこの「問題」のありかを端的に語っている場合が多い。

「まえがき」で書かれている三つのエピソードもピンとこない。

・スポーツバーで流れているスポーツ番組に熱狂している自分を演じている男への違和感

・相談している本人が何を相談したいのか分からず、かつ、伝えようという努力もしないでいる違和感

・中島みゆきの曲がある番組に使われているときの違和感

これらの違和感そのものは私にでも理解できる。だがなぜこれが「暇と退屈」を「問題」として扱う本の「まえがき」に書かれているのか、それが、うまく理解できない。

続いて「序章」に進むと、今度は、「豊かさ」について、國分は語り始める。

「ここに不可解な逆説が現れる。人類が目指してきたはずの豊かさ、それが達成されると逆に人が不幸になってしまうという逆説である。」(14ページ)

これはマルクスの「人は働けば働くほど貧しくなる」という逆説と同じような意味なのだろうか。

國分の「問題」はどうやら、もっとかみ砕いていえば、せっかく暇が得られるような社会に生きているのに、どうして私たちはその暇を楽しめていないのか、ということのようである。

確かに、「暇」になってしまった人にとっては、そのなかでどうやって生きたらよいのか、「退屈」とどう向き合えばよいのか、は看過できない「問題」なのかもしれないが、なにせ私には、実感がわかない。

こうした「問い」を立てられること自体、幸福なことであるから、「問う」こと自体ができる時点で、うらやましい。

いや、それよりもこの本が多くの読者の支持を得ている、という事実は、実は國分と同じような感覚を抱いている人は決して少なくはない、ということだ。

そうか、この世(少なくともこの国)の人たちは、みな同じように見えるが、根底からこれほどまでに違うこともあるのだ、ということを本書を読みつつ痛感する。

「生きているという感覚の欠如、生きていることの意味の不在、何をしてもいいが何もすることがないという欠落感、そうしたなかでに生きているとき、人は「打ち込む」こと、「没頭する」ことを渇望する。」(30ページ)

このあと、本章に入ると、次のような展開が行われる。

1 問題構成
2 退屈の起源への人類学的検証
3 逆説的な地位をもつ(余)暇の経済史的検証
4 現代消費社会における暇と退屈
5 ハイデガーの退屈論
6 生物学からのハイデガーの退屈論の検証
7 暇と退屈の倫理学の構想

この本は私にはとてもしっくりこないのだが、同時に、妙に気になるものでもある。

ここで考察されている内容は、直接は関係ないように見えるが、実は「人間と動物との違い」への問いと重なっているのではないか、そう考えると、何やら急に、本書がとても魅力的なものに変わってゆく。

わざわざラッセルとハイデガーがほぼ同じ時期すなわち1930年頃に展開したのは、以下のような問いであった。

「職と住を確保できるだけの収入と、日常の身体活動ができるほどの健康をもち合わせている人たちの不幸」(55ページ)

これがもしネコであれば、そのまま「幸福」ということになるが、人間の場合「不幸」となるようだ。

國分も、ラッセル、ハイデガー、さらにはコジェーブの「人間と動物との違い」について言及している。

それでいながら、彼らの思惑とは正反対に、次のように、とらえている。

「人間が人間らしく生きることは退屈と切り離せない。ならば、こう考えられるはずである。人が退屈を逃れるのは、人間らしい生活からはずれたときである、と。そして、動物が一つの環世界にひたっている高い能力をもち、何らかの対象にとりさらわれていることがしばしばであるのなら、その交代は〈動物になること〉と称することができよう。」(363ページ)

コジェーブの「動物化」をこのように読み替えるのは、見事としか言いようがない。

「人間であること」を楽しむこと、そして、それと同時に、「動物になること」を待ち構えること。

まさにその通りである。


暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)/太田出版
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ゴーストタウンから死者は出ない 東北復興の経路依存 小熊英二、赤坂憲雄 編著 人文書院 2015

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読んだ本
ゴーストタウンから死者は出ない 東北復興の経路依存
小熊英二、赤坂憲雄 編著

人文書院
2015.07


ひとこと感想

原発事故だけでなく震災(津波)被害の地「東北」がこれからたどる「べき」道をあらためて問う。今の行政のやり方では「経路」に依存しており本当の復興は困難であることを指摘。要するに東北は「ゴーストタウン」になってしまうと警鐘を鳴らしている。

小熊は、1962年東京都生まれ。東京大学農学部卒、出版社勤務を経て、98年東京大学教養学部総合文化研究科国際社会科学専攻博士課程修了。専攻は歴史社会学、相関社会科学。現在、慶應義塾大学総合政策学部教授。著書に『社会を変えるには』など。赤坂は1953年東京都生まれ。東京大学文学部卒。専攻は民俗学。現在、学習院大学教授。

***

正直言って驚いた。原発事故への対応については、これまで数多くの著作にふれてきて、いかに杜撰なことが行われたきたのか、そして今もそれが続いているのか、それなりに理解してきたつもりである。

しかし、津波の被害については、これまでの震災復興とほぼ同じように、すなわち、少なくとも1995年に起こった阪神淡路大震災の教訓がそれなりに活かされているのではないかという、ほんのわずかではあったが期待をもっていた。

ところが本書を読んでそれが見事に打ち砕かれた。

小熊に言わせれば、そもそもの、これまでと同じようなやり方、すなわち「経路依存」を前提として繰り返し繰り返し、前例主義で、予算を箱ものや公共ものにつけて、それで何かができたかのように行われるものが、復興になってしまっているようだ。

戦後につくられた災害対策スキームは1960年代に完成形をみる。言い換えれば当時の政治経済状況がそのままその後も踏襲されてゆく。

誰もがそれではおかしいと思いながらも、誰もそれを質すことができない。それが「経路依存」である。

「過去の制度や政策決定が硬直し、状況の変化に不適合になっているにもかかわらず、柔軟な対応ができない状態」(40ページ)ある。

阪神淡路大震災に焦点をあてた研究も、確かに、「従来のスキームが硬直化し、実情にあわなくなっている」(35ページ)と指摘されてきた。にもかかわらず、何も変わらない。

災害対策スキームの経路依存のほか、項目としては、小熊は、次の二点も加えている。

・仮設住宅建設の遅れ
・大規模公共事業への偏重

「1990年代以降は、このスキームは適合しなくなった。インフラ整備は費用対効果が薄く、かえって地域社会の自律性を破壊し、衰退と公共事業依存を生み、人口流出を招くことが多くなった。現在でも日本は、このスキームに経路依存したまま、膨大な財政赤字を発生させている。」(69ページ)

また、なぜわかっているにもかかわらず経路依存から抜け出せないのか、次のように指摘する。

「立ち止まって考え、やり直す勇気がないことだ」(75ページ)

こうした分析結果・認識をふまえたうえで、小熊は大胆にも次のように代案を提起する。

「現在において、とって変わるべき原理は何か。それは、被災者の直接支援であるべきだ。」(72ページ)

(すみません、時間切れです。残りの論考は、後日あらためて)

目次        
1 ゴーストタウンから死者は出ない 日本の災害復興における経路依存

小熊英二

2 変わりゆく景色のなかで 宮城県気仙沼の住民活動を通して

三浦友幸

3 豊かな海辺環境をつくるために 防潮堤問題から見えてきたこと

谷下雅義

4 被災自治体財政の分析 宮城県南三陸町を事例に

宮崎雅人

5 六年目の原発避難に向けて 福島県富岡住民として、いま思うこと

市村高志

6 福島原発事故の賠償をどう進めるか

除本理史

7 再生可能エネルギーの意志ある波のゆくえ エネルギー政策の経路依存と構造転換

茅野恒秀

8 支援者は地域創造の主体へと変わるのか アソシエーションと被災地域

菅野拓

9 地域再生のため宗教に何ができるか ソーシャルキャピタルの視点から

黒崎浩行

対談 住民主体のグランドデザインのために

赤坂憲雄、小熊英二


ゴーストタウンから死者は出ない: 東北復興の経路依存/人文書院
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未来に希望をもつために―ゴーストタウンから死者は出ない 東北復興の経路依存 小熊英二、赤坂憲雄

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読んだ本(2章以降)

ゴーストタウンから死者は出ない 東北復興の経路依存
小熊英二、赤坂憲雄 編著
人文書院
2015

***

もう20年以上前になるが、気仙沼、唐桑の「まちおこし」にかかわる方々とお会いしたことがある。

かつて「まちおこし」に取り組んでいた方の一人の言葉は衝撃的だった。

以前は仲間もいて、みんなで盛り上がっていたが、祭りのように、長くは続かなかった、と遠い目をして語ったのだった。

***

第2章では気仙沼における「まちづくり」と防潮堤建設について、地域で活動されている方のこれまでの歩みが語られている。

対立するための主張ではなく、共通項を模索するための議論やそういう機会を形成する姿勢は、まさしく熟議民主主義の模範例だと思う。

防潮堤問題については、次の章で谷下雅義が簡潔に問題をまとめている。

「国家が国の境界を決めるという防護の論理のみを備え、堤防内外のコミュニティや環境に配慮する論理が試みられなかった」(120ページ)

***

第4章では南三陸町を事例として「財政」について震災がどういった影響を及ぼしたのか分析を行っている。

復興事業がかえって自治体の将来に悪影響を及ぼしうるということを指摘している。

南三陸町は、2005年、それまでの志津川町と歌津町が合併してできた。震災直前(2月)では人口は18,000人近くだったが、2014年10月には14,000ンほど、約3,000人の減少が見られた。

財政状況をみると、歳入においては復興交付金や復興特別交付金、災害復旧費国庫補助金が多くを占め、歳出においても、
復興費、災害救助費、災害復旧費が大きなウエイトを占めている。

つまり、ほとんどが国からの交付金によって成り立っているのである。

実際にどういった悪影響を及ぼしうるかというと、二点挙げられている。

1)災害公営住宅整備事業によって財政が硬直化
2)数十年後にはインフラの維持補修費や更新が一気に増える

また、歳入についての問題としては、固定資産税の減少が見込まれるということである。町が買い上げた被災地域には課税されない一方、移転した場所の評価額はそれほど高くないからだ。

そしてここでも防潮堤によってこれまでの産業(漁業や観光)が衰退するおそれがあり、不安要因が多い。

他方で、2014年度には過疎指定を受けたことにより、これまでのように「ハード」中心ではなく、産業振興のためのソフト事業を行うことが可能になっている。


「しかし、地域の漁業や観光業を巨大防潮堤によって衰退させる一方で、借金によって産業振興を図るための事業を行うというのは、地域の持続可能性の観点から問題である。」(144ページ)

財政がさらに硬直化する危険性が指摘されている。


***

第5章では、富岡に住んでいた人の原発避難に関する論考である。

当時の避難を開始したときの「端緒」をふりかえっている。

2011年3月12日朝、「原発が爆発するおそれがある」という認識が、「避難」の理由であったが、重要なのは「おそれがある」というほうで、多くの住民にとっては、「爆発などありえない」という前提にたっていたということだ。

すなわちこの「避難」はあくまでも「一時」的なもので、念のためにすぎない、という思いがあった。

そして(線量の高さなどではなく)実際に「爆発」が起こったことによって「もう家には戻れないかもしれない」という気持ちになったという。

その後、避難生活が長期化するが、それは単に物理的な「長さ」だけが問題なのではない。

彼らの言葉を使えば「故郷を奪われた」ということになる。

専門家たちがまとめた言い方では「五層の生活環境の崩壊」と定義されているようだ。
http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/kanji/pdf22/siryo200-5-1.pdf

1 自然環境
2 インフラ環境
3 経済環境
4 社会環境
5 文化環境

それまでの日常が寸断され、「非日常」事態となって、「日常」を失ってしまい、回復が困難になっていることが問題なのである。

ここには「復旧」や「復興」という言葉は使えない。

もちろん「まちおこし」や「まちづくり」という次元でもない。

根こそぎ奪われた、失われた場合、人は、どうしたらよいのか。簡単ではない。

決められたルールや規則、従来からのやり方などをそのままあてはめて済むはずがない。

帰還するか移住するか、大雑把に言うと二者択一のようであるが、一人ひとりの「生活」はそう単純ではない。

「「のるか、そるか」的な解決策ではなく、一人ひとりの人生を少しずつ前に進めるために必要な選択が、誰でもない被災当時者によってなされるべきではないだろうか」(159ページ)

***

第6章では原発事故の賠償

金額にして9兆円にのぼる賠償額(さらに追加費用が掛かる可能性がある)は、事故加害者である東電(と国)の負担であるにもかかわらず、
原発の特殊性と被害の深刻さの両面から国が全面的にサポートに入っており、その結果、賠償額は、結局のところ国民全体で負担するということになる。

徐本はそうではなく、東電の破綻処理を行って、株主と債権者に負担を求めるべきだとする。

これは単に負担する額の重さだけを問題にしているのではなく、「責任」を明確にするということを意味している。

東電に対してだけではなく、国に対しても原発を推進してきた責任をふまえ、これまでのような原発優遇をやめるべきだと主張している。


***

第7章では、再生可能エネルギーの利用を高めようとしていた流れが、安倍政権によって寸断されたこと、結果的に、接続可能量の制限が行われたことは、事実上の「固定枠」のうちに制限されてしまうことになり、とてもではないが事業として再生可能エネルギーが成り立つはずがない。

だが今(2016年)、電力小売りの自由化がはじまる。小規模な組織でも相互連携することによって力をつけてゆこうとする動きがすでにみられている。

私たちが思っている以上に国の「原発」に対するケアは厚い。

日米関係、国際関係、経済的見地、さまざまなことが言われており、その正体はなかなかつかみがたい。

しかし、その「正体」をはっきりさせることよりも、足元から、小さなところから、原発依存を回避する方向性をつくりだす動きがあり、今後もそこに注目したい。

***

第8章では、被災地への支援者、というものについて、考察している。

かつての個々のボランティアは、今、NPOという法人格をもって行動している場合が多い。

つまり被災地への支援は、NPO(本章では「アソシエーション」と呼ばれる)を通じて、行われる。

このアソシエーションがどこまで地域の「ニーズ」にこたえているのか、その実態を読み解いている。

また第9章では「宗教」が主題となっている。ここには三つのテーマがある。

一つは、既存宗教団体がどのように被災地や避難生活者とかかわったのか、という実情の把握と、もう一つは、
ヒトびとへの「心のケア」に対して宗教(もしくは宗教的ふるまい)がどこまで役割を果たしうるのかということである。

これは精神医学やカウンセリング、社会福祉などの領域と重なるところであり、個人的にはあまり積極的にとらえることはできないが、人によっては、「宗教」によりどころを求める場合があるので、
選択肢としては考えるべきのなのであろう。

そして第三のテーマは、「祭礼と芸能」である。すっかりと形骸化した「まつり」であるが、被災や避難という境遇にある人たちにとっては、宗教と同じように、「まつり」や「うた」などが、大きな心のよりどころになると思われる。

***

小熊は赤坂との対談で、被災地で起こっていることが「震災」に特化されるものではなく、「日本の地方」が抱えている問題が、極端なかたちで出ていると理解している。

しかし私は前述したように、20年以上前において、阪神淡路大震災が起こる前から、「日本の地方」は同じ問題を抱え、この20年間、解決もないままに、ここに至っているということを痛感する。

こういう言い方は悪いは承知で書くが、今頃遅いのではないか、と思うくらいである。

そうした全体把握の段階はさておき、問題なのは、それぞれの地域が、それぞれの人が、一体どのようにして、これからを生きるのか、である。

人口比で言えば、圧倒的に人びとは「都市部」に集まっている。そこに「常識」や「正常」も集まる。

では「地域」(地方)では、何が可能なのか。

個人的な経験から言えば、それは一元化がきわめて困難であった。

それぞれの地域、それぞれの人、そこに集まっている人と場所が、どうにかするほかなく、それは、与えられたマニュアルにあてはめてできあがるマスタープランの良し悪しではない。

しかも場合によっては地域内部で「閉じる」ことを好む(この場合、第三者が何かするということはきわめて困難である)。

「開く」地域の多くは大消費地(の人)と連携をとり、1)遊びにきてもらう(観光)、2)地域の産物を買ってもらう(経済)、といった「交流」に行き着く。

何かできるとすれば、ほか、自治体や組織単位で、姉妹都市、姉妹校のようなかたちで、都市部と地域部とが相互にかかわりあうことくらいしか思いつかない。





ゴーストタウンから死者は出ない: 東北復興の経路依存/人文書院
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電力の社会史 何が東京電力を生んだのか 竹内敬二 朝日新聞出版社 2013.02

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読んだ本
電力の社会史 何が東京電力を生んだのか 
竹内敬二 
朝日新聞出版社 
2013.02

ひとこと感想
1970年代石油危機後の電力業界と政治家・官僚・メディアの闘いを、電力制度や原子力制度の変遷とともに描く。日本独特のエネルギー政策のあり方と今後の課題を欧米との比較を交えて分析する。

著者は1952年岡山県生まれ。京都大学工学部修士課程修了。80年朝日新聞社入社。和歌山支局、福山支局、科学部、ロンドン特派員、論説委員などを経て、現在、朝日新聞編集委員。温暖化の国際交渉、チェルノブイリ原発事故など、環境・エネルギー・原子力・電力制度などを取材してきた。

***

タイトルに「社会史」とあるので、てっきり、アナール派歴史学のような手法を用いて「電力」の歴史を描こうと試みようとしたのかと思ったが、そうではないらしい。


「本書では福島事故を起こすにいたった電力の構造的な問題を明らかにし、未来の政策を考える視点を示したい。」(6ページ)

「電力の構造的な問題」を歴史的に解き明かすということである。

要するに、ここでの「社会史」とは、「社会問題史」もしくは「新聞記事史」とも言える。

なお、参照文献に吉岡斉の「原子力の社会史」も含まれていることを記しておく。

***

「構造的な問題」の第一は、戦後60年間の「電力政策」の失敗である。

1911年、旧電気事業法が制定されたときには自由競争としてスタートし、小さな電力会社が乱立した。

しかし戦後、9つの電力会社は、各地域における独占体制を敷き、社会的、産業的に日本の支配者といえる存在となった。

この体制が60年間続いたことによる弊害。

こうした体制のなかで原発推進政策が国を挙げて取り組まれたが、ここで原発に疑義を挟むような立場の専門家は排除され、無批判な安全神話が形成された。

しかもここには「日本的な構図」として、欧米諸国に追いつき追い越せという意識と、政策を一度決めたら変えられないという公共事業の弊害とが見え隠れしている。

とりわけ1990年代と2000年代において電力業界は「電力の自由化」と「核燃料サイクルの見直し」を迫られた。

路線の問題点はそれなりに明らかにされたものの、大筋では変わらず、2度とも押し切り、変わることはなかった。

他方1990年代以降欧州では電力市場の自由化、すなわち、発電と小売を分けて、送電部門を公共化したうえで小売を自由競争としていった。

同時期には地球温暖化問題が電力においても議論されはじめ、原発を持ち上げる国もあれば、自然エネルギーをもちあげる国もあり、日本は前者を選んだ。

そのなかで当時の通産省も、自由化論議を精力的に進め、その結果、1995年に電気事業法改正(第一次自由化)を皮切りに、1999年、2003年と3回にわたって改正を行ってきた。

ところがこの改正は電力業界と通産省の内部闘争のような様相を呈し、社会構造の改革という本来の方向性をもつことができなかった。

また、東京電力は電力会社のなかでもとりわけ特殊かつ特権的な位置にいる。

公共事業でありながら民間企業であり、かつ、国際政治と深くかかわる原発を多くもつ。

年間の売り上げが5兆円あり、広告宣伝費などを増やしても電気代に乗せることができるという、経営不安のない恵まれた条件のなかで、緊張感のない体質が育まれて行った。

そして、2011年3月の福島第一原発事故を機にして、60年間封印されてきた日本の電力制度が変わる兆しが見え、「原発ゼロ」の議論も起きた。


福島原発事故を起こし
東京電力は実質、国有化された。

しかし2012年12月の総選挙で自民党が政権の座に戻ると急速に原発輸出、再稼働へと舵を切る。

***

 目次        
第1章 福島原発事故―戦後電力政策の敗北
第2章 電力9社体制の確立
第3章 特殊な日本の原子力推進体制
第4章 原子力政策の焦点、核燃料サイクル
第5章 海外の電力自由化と自然エネルギー
第6章 地球温暖化への対応と自然エネルギー政策
第7章 発送電分離が焦点―日本の電力自由化論争
第8章 東京電力の問題
第9章 原子力政策と電力制度を考える
補章 チェルノブイリ事故の日本への教訓

***


電力の社会史 何が東京電力を生んだのか (朝日選書)/朝日新聞出版
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電力が私益でも国益でもなく公益であるために――電力と国家 佐高信 集英社新書 2011.10

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読んだ本

電力と国家 
佐高信 
集英社新書 
2011.10

ひとこと感想
松永安左エ門、木川田一隆という電力事業の社会的責任に命を懸けた実業者に焦点をあて、電力は国益にも私益にも堕してはならないと持論を述べる。それは分かるが、原子力というものへの考察がまったくないのは不満。原子力は、国益をこえた「魔物」ではないのか。

***

とても不満である。

「電力と国家」というタイトルのもとで、電力事業というものが、国家のためだとか、私欲に走るとか、そういうことがあってはならず、公益として、社会的責任をはたすべきもの、という主張そのものは、とても明解であり、不満はない。

慶応大出身の著者が、福沢諭吉や
松永安左エ門、木川田一隆を称賛するのも、身内褒めのようで少々こそばゆいが、まあ、それもよしとしよう。

だが、本書は2011年10月に刊行されているという事実を前にすると、非常に納得がゆかなくなる。

なぜ、原発事故や原子力というものに、佐高は、正面から向き合おうとしないのか。

「原発文化人50人斬り」という本もそうだった。

おもしろい切り口であることは認めるが、原子力のことを、原発のことを、ろくに理解しようとしていない人間が、こうした軽口をたたくのは、あまり、恰好のよいものではない。

本書で「原子力」にかかわる内容は、ごくほんのわずかにすぎない。というか「量」ではない「質」がないのである。

「福島第一原発の過酷な事故は、平岩(外四)に端を発していると私は見る。」(149ページ)

これが佐高の「原子力」への理解のすべてである。これで「評論家」を名乗れるのだから、世の中、本当に不思議でならない。

もちろん安直に「東電」や「電力」をまるごと「ダメ」だとしたり顔で貶すことも、同じように愚かしいことではある。

それは東北電力も東電もみな「悪人」といった論調に風穴を開けようとした町田徹がそうであったように、電力の鬼と言われた松永や、東電社長だった木川田の事業理念と実績を正当に評価しようとすることは、「電力」事業というものを考える際には、非常に重要な論点であるだろう。

松永や木川田らの、国家と戦い続け、民の力で幸福な暮らしを築き上げようとする気概、社会に対する企業の責任意識、そういうものは、よくわかった。

だが、相手は、原子力であり、放射線であり、原発事故である。

単純に、私益、国益、公益、といった三つの説明軸で片付く話ではない。

「本書は電力と国家の葛藤の歴史を振り返りながら、いかにすれば両者の緊張関係を保ちつつ、電力を「私益」から解き放つことができるかを考える素材を提供することを目的とする。」(16ページ)

原子力には、こうした、私益、国益、公益、といった言葉では組みつくせない「益」もしくは「益」への「欲望」が潜んでいる。

原子核に中性子をあてて、核分裂を起こさせてエネルギーを得る、ということは、何か、そうした人間がこれまでつくってきた個人観、国家観、社会観の内部に収めることができない領域を切り拓いているのではないのか。

俗な言い方をすれば、世界が生まれる端緒を伺い知ったわけであり、
宇宙の秘密を垣間見たのであるから、それは、世界益、宇宙益、もしくは、世界観、宇宙観の問題としてとらえなければならないのである。

それを「平岩」という一個人にほとんど還元させているのは、いかがなものだろうか。

「「人間は生産力の手段だけの存在ではない」という人道主義的な企業理念を持つ木川田が、原子力導入を断固拒否していたのは、当然ともいえる。」(137ページ)

ここには「人道主義」と「原子力」とが対立関係にあるという佐高の考え方が表明されているが、そもそも原子力に人道など関係ないではないか。いや、「人道」というカテゴリーからはみ出ているものこそが「原子力」なのである。

「日本の原子力開発は、初っ端から官僚機構と電力会社の陣取り合戦の材料にされた結果、当の「怪物」に対する慎重な論議、警戒が、軽んじられたきらいがある」(140ページ)

これは佐高自身に言いたい言葉である。

当の佐高こそ、この「怪物」に対して「慎重」な検証がないまま、その「陣取り合戦」に夢中になって本書を書いてしまっている。

173ページある本書のうち、わずか37ページが、「原発」が絡む内容となっている。

なぜここにもっと力をこめなかったのか。

しかも佐高は原発(原子力開発)のことを、前述のように「怪物」と呼び、そして、「悪魔」と呼ぶ。

つまり、正体の知れないもの、としたまま、漠然と書いている。

「木川田は最初から(原発のことを)「悪魔のような代物」と言っていた」(142ページ)

福島県梁川町(現伊達市)出身の木川田が「自分の故郷に原発を建設したのは、その覚悟(悪魔のような代物を官の手に任せず民間企業の責任で危険を管理していくのだという思い)の表れであったとみる」(142ページ)のだが、どうであろうか。

そうした気概があったとして、それがなぜ、平岩に継がれなかったのか。

「平岩は、理念より、利潤や利便といった「現実」を優先させる男であった。」(147ページ)

もちろんこうしたとらえ方も、あってよいのだろう。だが、これだけで、本当によいのか。

私にはむしろ「電力と国家」というテーマにとらわれすぎていて、相変わらず原子力を「怪物」「魔物」としかとらえられないことのほうが、「人災」であるように思われる。




電力と国家 (集英社新書)/集英社
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国策民営の罠 原子力政策に秘められた戦い 竹森俊平 日本経済新聞出版社 2011.10

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竜宮の囲、なのに、なぜか、ティンカーベル


読んだ本

国策民営の罠 原子力政策に秘められた戦い
竹森俊平
日本経済新聞出版社
 2011.10

ひとこと感想
3.11がもたらした課題は山のようにあるので緊急なミクロ的課題から解決しなければならないとし、その第一が今後の「電力体制」で、具体的には東電の経営破綻問題であり、この問題を解決するためには50年前の原賠法にさかのぼる。

***

1956年東京生まれ。1981年慶応義塾大学経済学部卒、1986年同大学院経済学研究科修了。同大学経済学部助手。慶應義塾大学経済学部教授。「経済論戦は甦る」第4回読売・吉野作造賞。主な著書に「世界デフレは三度来る」など。

***

日本のみならずドイツの原発においても老朽化した原発をライセンス期限の延長をして使用するということの意味を、この経済学者は考える。

それは端的に、原発のビジネスモデルが「うまくいっていない」からではないのか。

「実は破綻しているビジネス・モデルを、減価償却の期間を延長しつづけることによって、あたかもビジネスが軌道に乗っているように見せかけているのではないか。」(15ページ)

これについては原発推進の立場である米経済学者マイケル・ミルケンがはっきりと、石炭よりも原発のほうがコストが高いと明言していることを著者は発見する。

だが、なぜ、にもかかわらず原発は推進されるのか。

***

この経済学者はもう一つ、疑問をもつ。

東電の経営破綻に対して日本の金融市場が大きく動揺している理由は何か。

日本の社債市場において東電債が占める割合は、きわめて多い。

そして東電債は国債と同じように「安心」と思われきた。

それは、東電が「国策」を担っているからだ、ということになる。

しかしサブプライムローン問題で米国が「政府の暗黙の了解」(22ページ)によってモラル・ハザードを起こしたように、東電も同様のことが起こっているのではないか。

***

MITのよる研究に基づき竹森が理解したのは、原発は「ハイリスク・ハイリターン」の典型であるということだ。

・建設費が高い
・操業開始までのリードタイムが長い
・政治リスクが高い

そのために「資本コスト」については、他の発電形態と比べると2パーセント不利なようになる。

そのため本来は、原発がコスト高になるのである。

ところが「もしも」上述の「リスク」を何らかの形で消去できたとしたら、原発は場合によっては「安価」な発電方法ともなりうる。

そう、この「もしも」が大事なのである。

上述は要するに米国の場合であり、市場競争原理が前提となっているが、日本においては、こうしたリスク分を電気料金に上乗せできるし、「国策」という名のもとに、(何が起こっても)経営破綻は原則ありえないという「信用」をもちえているのである。

***

それではどうして原発は「国策」として認められているのか。

竹森は、「通産省による産業政策」当局によって、である、と明言する。

「国策」とは言うが、要するに「日本にもぜひほしい産業」(60ページ)であり、それは「国家としての威信にかかわる産業」(同)ということのようだ。

「威信」はすなわち「prestige」である。「国家としての威信」を求める気持ち、それは何に由来するのか。

自分自身の威信なのではないのか。

だが、その「自分」はその威信をもって、何がしたいのか。

***

すみません、今日もまた、時間切れです。

続きはまた明日。

***

電力会社の原発推進を決定づけたのは50年前のひとつの法律だった…。その成立に秘められた「民法の神様」と「愚鈍な蔵相」の戦いを軸に、政・官・財・学の意思決定力学をミステリータッチで解き明かす。

第1章 原発のトータル・コスト
 二つのミステリー
 原発で採算がとれるのか
 原発建設費の謎
 資本コストの謎

第2章 国策としての原発推進
 通産省の「産業政策」
 日米「共同」の産業政策
 先進国システムへの転換失敗

第3章 民営か国営か
 松永安左エ門の先見性
 国家管理の影
 松永の栄光と悲哀

第4章 民法の神様と原賠法の謎
 50年前の法律の呪い
 電力会社の政府保護を明示
 民法の神様の戦い

第5章 原賠法に埋め込まれたメッセージ
 我妻答申の意図
 「愚鈍」な大蔵大臣
 我妻答申の「改ざん」
 最後の勝者


国策民営の罠―原子力政策に秘められた戦い/日本経済新聞出版社
¥2,160
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政治主導による原子力推進に対する経済主義者の理解の仕方

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階段の手すりの開いたところから覗き込む猫の影


・・・すみません、昨日の続きです

読んだ本
国策民営の罠 原子力政策に秘められた戦い
竹森俊平
日本経済新聞出版社
 2011.10

ひとこと感想
「経済主義」の観点から「原発」をとらえると、厄介な代物を抱え込んでしまったという印象のようだ。それを政治家や通産省による「国家の威信」のためにつきあわされ、その不安定な立ち位置のなか、無責任体制が継続しその結果が事故とそのあとの杜撰な対応に反映しているということになる。原発を「推進」か「反対」かということではない論点を提供していると言える。

***

竹森は、原発事故が起こった原因考える際に、「現在の日本のシステム」にも目を向けるべきだとする。

1 安全管理能力の低さ

「機器の発生に万全の注意を払い、発生を全力で阻止し、発生した場合には速やかに解決できるようなシステムを完備する国家的な意思が欠如している」(79ページ)

2 先進国システムへの転換の失敗

人口構成が若くて所得水準が低い一方で成長率が高い国が、次第に、人口が高齢化し所得水準は高いが成長率が低い国になるときに、以前のシステムのままで転換できていない。

この1と2は関連している。

先進国システムになると、安全管理の失敗は致命的になる。

安全管理とは計画に「待った」をかけること。大事なところで「待った」をかけないと経済的損失が計り知れなくなる。

「国策民営」というのは、いわば、「途上国」システムである。

「国策を遂行することで低金利を享受できる会社は、自分の行っている事業の危険を軽視しかねない」(87ページ)

しかし、そういう体制のなかでも、差がつくことがある。

ここでも東北電力の女川原発が対比される。

より震源地に近い女川が地震や津波に耐えられたのは、貞観地震のことが1990年に知られるようになって、しっかりと対策をとったからである。

この差はどこから来たのか。

東北電力が地元のことを考えていろいろな対策を行ってきたのにたいして、東電は地元ではない、という意識の違いなのか。

そしてここでも松永安左エ門は高く評価されている。

…というところで気づいたのは、竹森も慶應のヒトであった。ただし竹森は、一橋大の桶川武郎の著作に準拠している。

松永は発電設備の稼働率に着目し、特に設備投資費用の高い発電設備の稼働率を高めることで投資の無駄を省くというやり方であった。

そのために松永は、以下のことを提唱した。

・民営
・発送配電一貫経営
・水火併用方式
・需要家向けのサービス向上

佐高と竹森が違うのは、竹森は、こうした松永のやり方に対して、もう一方の国家管理型の動向も押さえている点である。

まず、松永のそばにいた福沢桃介がこの代表にあたる。また、同じ松永のブレーンの一人、出弟二郎をとりあげている。

竹森はむしろ、松永の案よりも出の案を高く評価している部分がある。

それは、「グリッド」(送電網)に対する考え方である。

発送配電一貫方式においては「グリッド」は単なる「通路」にすぎない。

だが「グリッド」とは「マーケット」として機能するものであり、需給調整メカニズムが役割として期待される。

この部分を国有化しておけば、安定したシステムとなる一方で、発電部門は国有でも民営でもそのときの状況に応じて変えられるのであり、それが英国モデルである。

つまり、竹森は、大半においては松永システムを高く評価するが、グリッドの整備を放置したことを「負の遺産」であるとするのである。

「戦後の電力会社の経営そのものがグリッドに背を向けてきた」(114ページ)

また、松永案が通った理由としてはGHQ側が国営(国家管理)を嫌ったからだ。

佐高はとにかく「国家」が嫌いで、松永の言動を高く支持していたが、竹森はもう少し冷静にこの問題をとらえている。

したがって、その後、国家側が松永案に対抗すべく、電源開発株式会社を設立するものの、これはグリッドではなく「大規模発電所の建設を目的とした発電会社」であった。そしてこの延長線上に原発がある。

9電力体制(のちに沖縄が加えられ10電力)と電源開発の併存というのは、まことに奇妙に思われたが、竹森の説明で納得がゆく。

通産省は松永の9電力体制が「産業政策の意図に従順に従うとは期待していなかった」(119ページ)のである。

こうした、電力会社と通産省の対抗的関係は少なくと1960年代中頃までは続くが、その後変化してゆく。

とりわけその端緒となったのは原発の導入である。

実際、松永は晩年、その危機をしっかりと見据えていたと竹森はとらえる。

1966年12月産業計画会議の資料40号「原子力導入とその問題点」では、松永は原発が長期的には必要であるとしても短期的には必要がない、という私見(これは松永の個人名で書かれたものではないが)を述べているのである。

「わが国がもつエネルギー上の歪みを是正すれば短期的には必ずしも原子力以外に解決がないほどひっ迫しているとは考えられない。…単に長期的な将来に原子力が必要だからといって、短期的な必要がないにも拘らず現在、商業用発電炉を幾分の採算上の不利を容認して導入するならば短期的には勿論長期的な観点から見ても大きな誤りをおかすことになる。」(130ページ)

私にとってはこうした記述は、戦後の出発点においては電力会社側の意向が必ずしも「原発」を求めてはいなかったことを知るうえで重要である。

のちには原子力ムラの中心的アクターとなるわけだが、原発への欲望は、必ずしも電力会社に由来したものではないのである。

本書からみれば、政治家と通産省官僚が欲望した、という結論になる。

また、もう一点、経済的な問題と技術的な問題を混同してはならないという指摘もある。

この両者を混同してしまうと「日本経済に歪みをもたらす原因となる」(131ページ)のである。

これは「1956年」の文章であること、そして、電力会社の重鎮がここまではっきりと原発の短期的利用に拒絶反応を示していたことに、驚きを隠せない。

こういう言い方は短絡的であるが、少なくとも本書を読むかぎりにおいては、電力会社は被害者であり、原発はむしろ通産省から押し付けられたもの、ということになる。

また、ここは佐高と竹森は一致するところであるが、こうした松永のはっきりとした原発に対するスタンスが、その後継承されなかったことも、不幸のはじまりであった。

こうして竹森は、次第に国策民営化の問題点を明らかにしてゆく。

その顕著な例が、原賠法である。

簡単に言ってしまえば、賠償額が多い場合や巨大な災害による被害があった場合など、いずれにせよ原発被害の補償は電力会社ではなく国が面倒をみるということが、法律ではっきりと示されているのである。

これは、単に、だれが最終責任者であるのか、だれが賠償金を払うのか、という問題ではなく、どうして電力会社が国に左右されるような存在になったのかを解きあかすカギだということである。

原発に手を出した電力会社は、この原賠法によって、国の意向に服属することになったということを竹森は強調している。

ただし竹森はこの原賠法も一枚岩ではなく、さまざまな紆余曲折があったことを明らかにしている、というか、むしろこちらの解明に本書の後半は割かれている。

その「犯人探し」は実際に本書を読んでもらうことにして、ここで大事なのは、次の指摘である。

「1961年の段階で、大蔵省には巨大な原子力災害が生じたときに、青天井の損害賠償責任を背負い込む準備がなかった」(208ページ)

1960年に科学技術庁が社団法人日本原子力産業会議に委託して出させた数値は、当時で、3兆7千億円である(詳細は省く)。

一方では原発を欲望しておいて、その起こりうる最悪の事態を織り込むことを意図的に避けたことが遠縁で原発事故が起きた、と竹森は因果関係をまとめている。

とても興味深い指摘であった。



国策民営の罠―原子力政策に秘められた戦い/日本経済新聞出版社
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エピステーメーとしての原発、公的選択としての原発――フーコーとイリイチから

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以前読んだ2冊の本
ミシェル・フーコー
性の歴史I 知への意志
渡辺守章訳
新潮社
1986

イバン・イリイチ
シャドウ・ワーク
玉野井芳郎・栗原彬訳
岩波書店
1982

***

フーコーは古典主義時代や近代におけるエピステーメーの編制の変容を「言葉と物」で描いて見せた。

その後、「性の抑圧という仮説」への懐疑や「監禁社会」または「原子力の時代」「バイオパワー」の強調など、現代のエピステーメーにかかわる問題提起も行っている。

しかし、それが特に「エピステーメー」として「言葉と物」の文脈を増補するような営みに至らなかったのは、おそらくこうした「図式化」が良い効果を生まないと考えたからであろう。

そうしたフーコーの思慮は分かるが、個人的にはやはり手際よく全体像をみせるかのようなダイアグラムの提示をしてもらいたかったので、とても残念である。

ところで、そうしたフーコーの意向を置いておいて、戦後の「原子力」をめぐるエピステーメーは、かなりシンプルな説明が可能である。

右      左
資本主義 社会主義
米国    ソ連

要するにこれは、イリイチが「公的選択の三つの次元」で指示したものにしたがって説明ができるのである。

上記の対立項が、第一の選択次元であり、一般的には「政治」と呼ばれている。

続いて、第二の選択として、以下の対立項が現れる。

ハード     ソフト
原子力発電 風力や太陽光発電

この第二の対立項は、一般的には「技術」と呼ばれる次元にかかわっているが、これもまた「政治」であり、第一の次元のみならず、この次元においても、公的選択は重要な意味をもっている。

言い換えれば、たとえ「右」であろうが「左」であろうが、「ハード」を選ぶか「ソフト」を選ぶかは可能であるにもかかわらず、「右」も「左」も「ハード」しか選ぶことがなかった、というのが問題提起的な部分である。

さらにイリイチはこの次元でとどまることなく、第三の公的選択の方向性を提示している。

インダストリアル  バナキュラー
成長、発展、開発  コンビビアリティ、サブシステンス、コモンズ、エコロジー
ホモ・エコノミクス  バナキュラーなジェンダー

この第三の次元は、大きな誤解を生み、イリイチはいつの間にか「反動思想」「伝統主義」「懐古主義」といったレッテルが貼られ、あまり読まれなくなっていった。

だが、私には、この第三の公的選択の対抗軸は、今なお、有意義であると考えている。

「インダストリアル」か「バナキュラー」か、というのは、言うなれば、歴史観の問題でもあり、今なお強力な支持者のある「発展史観」に依拠するか否かという考えが含まれている。

私たちは、過去から何を引き継ぎ、それを今度は、未来世代に対して、何を遺してゆきたいのか、ということである。

ようやく倫理学においては、世代間倫理という形で、議論が行われはじめた。

そのなかで、廃炉や放射能や核廃棄物というのは、未来世代への「負」の遺産であるがために、現在においてたとえ幸福をもたらすとしても、決して単純に肯定的にとらえられない。

「進歩史観」においては、未来にはそれを解決する技術がきっと現れるに違いない、という希望的観測(実は「無-責任」)が潜んでいる。

地球環境問題や遺伝子操作などの問題もそうであるが、こうした長期間にわたって根源的な影響を及ぼすものについては、常に慎重に検討し、場合によっては、しばらく保留ということがあってもよいはずだ。

しかも興味深いことに、電力の鬼と呼ばれた松永安左エ門は、原発導入を通産省から急かされるなかで、できることならもう少し技術が成熟し、経済的に見合ったものになるまで様子をみたかったという思いがあったようなのである。

戦後、電力を民営化し、発送配電一貫の全国9社体制にまでもっていった松永をしても、原発の導入は食い止めることができなかった。

だが、なぜ私たちは急ぐのであろうか。

ここにも「世代間倫理」の問いが横たわっているように思えて仕方がない。

すなわち、一個人の生涯もしくはその同時代と、長い歴史的プロセスとの関係のとり方である。

端的に言えば、「歴史に自分の名を残す」ことを目指して、人は急ぐのではないだろうか。

多くの人の手によってリレーされる長いプロセスに、わずかでも自分がかかわっているという感覚ではなく、「俺が」「私が」という意識なのではないだろうか。

(時間切れ、いずれまた続く)




知への意志 (性の歴史)/新潮社
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シャドウ・ワーク―生活のあり方を問う (岩波現代文庫)/岩波書店
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日本原爆論体系 第7巻 歴史認識としての原爆 岩垂弘、中島竜美編 1995.06

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読んだ本
日本原爆論体系 第7巻 歴史認識としての原爆
岩垂弘、中島竜美 編集・解説
日本図書センター
1999.06

ひとこと感想


***

第1章 広島・長崎はどう語られてきたか 5年ごとのプレイバックー

伸びゆく原爆孤児
週刊朝日 記事
朝日新聞社
1954.08.13号

原子力と世界平和  原爆投下5周年に際して
仁科芳雄
改造
改造社
1950.08月号

「ひろしま」あれから十年 平和へ涙と怒りの歩み
サンデー毎日 記事
毎日新聞社
1955.08.07号

忘れ得ざる原爆 いまも続く15年目の傷あと
週刊朝日 記事
朝日新聞社
1960.08.14号

ヒロシマの影いまだ消えず 原爆病院重藤院長の見てきた20年
週刊朝日 記事
朝日新聞社
1965.08.13号

残存放射能を無視しつづけるABCC
週刊朝日 記事
朝日新聞社
1965.08.14号

ヒロシマ25年 核時代1/4世紀
庄野直美
世界 第297号
岩波書店
1970.08月号

日本人の核意識構造を解剖する 全国世論調査結果の多次元分析
朝日新聞世論調査室
朝日ジャーナル
朝日新聞社
1975.08.15号

被爆二世たちは「生命と生活」の保障を求める! 原爆=放射線がもたらした、もうひとつの生命の危機
関東被爆二世連絡協議会
炎 臨時号
関東被爆二世連絡協議会

アメリカのTVが報じた「ヒロシマ」
青木冨貴子
諸君!
文藝春秋
1985.11号

アメリカ合衆国・1985年8月 原爆投下41回目の夏の憂鬱
岡本三夫
ヒロシマ・ナガサキの証言 秋・第16号
広島・長崎証言の会
1985.10.30

原爆投下機爆撃手に「長崎の鐘」を聞かせたくない長崎市の40回目の暑い夏
サンデー毎日 記事
毎日新聞社
198508.11号

半世紀もの間、何をしとるんね 碑の中から戦友の声が……
関千枝子
毎日新聞(大阪版)
毎日新聞社
1994.08.06

被爆五十年の広島・長崎を歩く
岩垂弘
軍縮問題資料
1995.10号(加筆あり)

第2章 慰霊碑の碑文論争

過ちは 繰返しませぬから 碑文論争の歩み
石田宜子
広島市公文書館 紀要 第20号
広島市公文書館
1997.03.31

碑文について
広島市役所市長室広報係
広島市政広報 第31号
広島市役所市長室広報係
1952.09.1

「日本人は過ち犯さず」 慰霊碑の字句にパ博士の憤り
中国新聞 記事
中国新聞社
1952.11.04

広島の碑
岸田日出刀
文藝春秋
1957.02号

解釈になお両論 "過ちをした"のはだれか
朝日新聞 広島版記事
朝日新聞社
1957.01.22

「過ちは繰返しません」
浜井信三
原爆市長 抄出
朝日新聞社
1967.12.15

請願書「原爆慰霊碑・碑文改正の件」
原爆慰霊碑を正す会
1970.03.09

碑文を変えないで 県原水協など22団体 広島市へ要請
中国新聞 広島版記事
1970.02.13

「原爆慰霊碑改築の是非!」広島市長 山田節男氏に訊く
山田節男
政治・経済セミナー 第847号
政治経済セミナー社
1970.03.01

「原爆慰霊碑改築の是非!」座談会ー1
浅尾義光・吉川清・宮本正夫・中村良三

政治・経済セミナー 第847号
政治経済セミナー社
1970.03.01

「原爆慰霊碑改築の是非!」座談会ー2
森弘助治・浜本万三・佐竹信朗・田淵実夫・田辺耕一郎

政治・経済セミナー 第847号
政治経済セミナー社
1970.03.01

第二回国連軍縮特別総会における荒木武・広島市長の演説
荒木武
広島市移民局国際平和推進室資料
1982.06.24


第3章 被害と加害をめぐって

原爆投下とアジア 抄出
阿部治平
アジア 1945年
中村平治・桐山昇共編
青木書店
1985.09.01

罪の意識からの出発
岩松繁俊
1985.12.7シンポジウム記録集 反核と日本の戦争責任
反核1000人委員会
1986.03.15

ヒロシマ・ナガサキと中国 抄出
今堀誠二
中国と私、そしてヒロシマ
渓水社
1988.09.26

「詩による昭和史」 1989年度日本YWCA「ひろしまを考える旅」 抄出
栗原貞子
問われるヒロシマ 
三一書房
1992.06.30

被爆問題と報道 「広島・長崎」をどう伝えたか
岩垂弘
朝日新聞
1995.03.28,20,30

ヒロシマと歴史教育 抄出
陸培春
アジア人が見た8月15日
かもがわ出版
1995.08.25

アジアとヒロシマ 戦争責任とヒロシマ 抄出
平岡敬
希望のヒロシマ 
岩波新書
1996.07.22

広島よ、おごるながれ 原爆ドームの世界遺産化に思う
本島等
平和教育研究 年報VOL.24
広島平和教育研究所
1997.03.31

本島論文に対する抗議文
広島県原爆被害者団体協議会
証言!ヒロシマ・ナガサキの声1997 第11集
長崎証言の会
1997.10.01

原爆ドーム世界遺産化で考える ヒロシマの被害と加害
本島等・袖井林二郎・松元寛・河野一郎
広島教育 533号
広島県教育用品
1997.12号

複眼で見よう原爆被害と戦争加害
高橋昭博
朝日新聞 大阪版
1997.08.05

第4章 スミソニアン原爆展問題

スミソニアン原爆展示はなぜ阻止されたか マーティン・ハーウィット氏に聞く
マーティン・ハーウィット・油井大三郎
世界 第633号
岩波書店
1997.04号

「原爆神話の五〇年」<抄>
斉藤道雄
中公新書
1995.10.25

越境する戦争の記憶 スミソニアン原爆展論争をめぐって
米山リサ
世界
岩波書店
1995.10号

ヒロシマと真珠湾
米谷ふみ子
世界 第615号
岩波書店
1995.11号

「ヒロシマ・アメリカ」<抄> 原爆展をめぐって
直野章子
渓水社
1997.10.01

関連文献
解説
核問題関連年表

放射線を放つ商品たち

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Radioactive Quack Cures

すみません
今日は書くことができないので、上記のリンクをご覧ください
いずれこれも記事にしたいと思います


この本こそ「世界に嗤われる」ことがありませんように~世界に嗤われる日本の原発戦略 高嶋哲夫

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読んだ本

世界に嗤われる日本の原発戦略
高嶋哲
PHP新書
2015.03

ひとこと感想
使用済み核燃料や廃炉については独自の見解を提起しており、もっと議論されるべき内容だと思う(賛否ではなく)。ただし、タイトルにあるように「世界」という視点から原発や事故をとらえるべきだとするのは、今ひとつ説得力がない。また科学主義でオポチュニストであるが、本当の科学主義ではない。

***

著者は「災害サスペンスの旗手」とされ「原子力サスペンス」という異様なジャンルというか自前の世界をもっている。

原子力サスペンス? 冥府の虜 高嶋哲夫、を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11639683823.html

原発クライシス(高嶋哲夫)、を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11678080894.html

トルーマン・レター(高嶋哲夫)、を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11675917357.html

これまでの小説を読んだ印象ではかなりハチャメチャなところが目についたが、この評論文は、丁寧に書かれており、読むに値するものだった(小説は好きにはなれなかったが、この本はそういった感情に流されずに読むことができた)。

***

作家だが、日本原子力研究所勤務歴があり、著作も「メルトダウン」をはじめ多数の原発に関する小説がある。

「科学的」であることと「世界全体」から物事をとらえることを強調、原発の稼働や輸出、技術の共存などは不可避であると高嶋は主張する。

澤田哲生の論調と近いと思われる。基本的には、そうした主張に、違和感はない。一定程度以上の合理性がこめられているし、こういう内容については、議論ができる。

私はもしこの世の中の趨勢が高嶋の言うとおりであるとしても、その趨勢に対する「クリティカル・ポイント」でいたい。あり続けたい。そういうスタンスである。

つまり高嶋の主張は、世の中の趨勢がこうなのに、なぜ世間一般は脱原発を志向しているのか、ということになる。

「科学」や「世界」にことを言う前に、事故に対する検証や被害(もしくは現状)、そこに目を向けることが何よりも大切なことだと私は思う。

興味深いのは、高嶋は「世界」を自ら担おうとしているにもかかわらず、そのタイムスパンは短く、1000年や100万年といった単位については、最初から担うつもりがないところである。

また、高嶋は、事故を起こした原発は、「日本」の技術ではない、とまるで自分たちに責任がないような書き方をしているが、これもまったく納得できない。

福島第一は米国の技術移転であり、その後に建造されたものとはまったく違うということを強調している。

実被害については、確かに当初の不安や緊張が続いたころと比べれば、はるかに放射性物質の放出量は低く抑えられつつあるということは、その通りであろう。

だがこれまでの行政や東電のやり方のなかにはこのまま続けることが許されない欠陥があり、もっと検証を行い続けるべきだし、そうしたことを軽視するかのような姿勢こそ、無責任すぎ、かつ「世界に嗤われる」ための主要因となりうると思われる。

「世界」とりわけ発展途上国の人びとのことを高嶋がまるで彼らの代弁者であるかのように語っているが、さも当たり前に自分の価値観(電気をたくさん使うことが幸せである)を多くの人が共有していると固く信じているようであるが、それはどうだろうか。

ここにはそうした価値観のとらえ方については、何ら根拠のある説明がない。

書名のことを言えば、「世界に嗤われる」のは、「私たち」が「原発事故」を起こしたからであって、原発を止めているからではない。

高嶋の主張ポイント

1)福島第一と他の原発とは同じではない

2)世界では電力を必要としている人たちが数多くいる

3)現在の使用済み核燃料のやり方は間違っている

4)廃炉にはもっと現実を見つめることが大切

1)については「違い」があるのはわかるが、それと、どうしてこの原発で事故が起こったのかという原因とを同一視する理由がわからない。

高嶋の理屈では、日本の技術はすべて「良い」ということになってしまうが、それは「科学的」でもなんでもない説明である。

もしも高嶋のように、福島第一原発が、あたかも事故を起こして当然の原発で、他の原発ではそうはならない、ということを主張するのであれば、それは事故後に言うべきことではない。

なぜそれを放置して事故を起こしたのか、ということが問題なのである。

40年以上稼働させようとすることなく、稼働をやめていてこそ、こうした高嶋の説明は合理性を生む。

2)については、前述したほか、原発のメリットとしてベースロードとして最適というのものある。だがこれはスマートグリッドの利用によって十分に安定提供が可能となるというような論点はここにはない。

そして、エネルギー利用の拡大に対しては、できるだけ石油を使わない方向が正しいと思うのなら、同じように、ウランの使用ももう少し効果的かつ安全に使うことを前提とすべきではないか。

「科学主義」かつ「オポチュニスト」人はいつも、未来のことは未来に任せばよいという、立場をとる。

しかし「先に進む」ことを不可避、必然、絶対善とすることに対して、あまりにも無批判的ではないのか。

3)については、これまで読んできた主張とくらべると独特のものである。

この点については、もっと掘り下げて議論を続けてゆくべきだと思う。

だから、未来世代への責任をとることは困難なのは承知のうえで、しかし、今私たちが生きている「現在」と「未来」とをつなげて「現在」を考えることこそ、「科学的」かつ「グローバル」な立場だと言う見方を著者にももってほしい。

10万年後のことを考えることこそが「科学的」ではないのだろうか。

4)についても同様に、議論が大事であって、結論や主義主張ありきではあってはならない。

ただし、高嶋はたとえば放射線被曝ヒロシマ、ナガサキの経験から十分なデータがある「はず」と書いているが、これがそうでもないことをなぜか調べようとしていない。

また、原発輸出を進めているロシアと韓国を揶揄(事故対応や技術力のなさ)しているが、高嶋の論理で言えば、むしろ、原発事故を起こした日本には、どこにもアドバンテージはなく、深刻な事故を経験したからこれからは安全にふるまえる、という言い回しは、あくまでもレトリックにすぎないし、どこにもアドバンテージはない。

もちろん、ただ原発(の技術)を放棄するということが暴力的に(無批判的に)進められればそれでよいというわけではまったくない。

時間をかけて見直しを図ることが必要。

70億のうちの1億3千万人の「責任」は、高嶋の言うようなことで片付かない。


世界に嗤われる日本の原発戦略 (PHP新書)/PHP研究所
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知ろうとすること。 糸井重里、早野龍五 新潮文庫 2014.10.01

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読んだ本
知ろうとすること。 
糸井重里、早野龍五 
新潮文庫 
2014.10.01

ひとこと感想
独特の説得力をもつ糸井による原発事故後を生きるために必要なことをきちんと「知ろうとする」ための本。同時に、事故当時からそれ以降に至る、早野の実践活動の記録でもある。正直に言えば、三度読んで、ようやく、素直に読めるようになった。

***

対談相手である早野は反陽子ヘリウム原子と反水素原子の研究者で原発事故当時、冷静に、的確な情報をツイート、その後も陰膳検査などに貢献。

早野が原発事故に際してtwitterで現状分析や情報発信を行っていたのを糸井が見つけたのが縁。

最初に糸井が述べている前提、これは、とてもよくわかる。

「全部「嫌だ」と言ってると、やっぱり大事なことが見えてこないし、頑なに「大丈夫だよ」とだけ言ってても、つかめないものがあると思うんです。だから、その両方のこと、両側からやり取りするというのが、今回、早野さんとお話しをするときの、ぼくの基本的なテーマのひとつなんです」(13ページ)

おお、そうだよね、やっぱり糸井さん、わかっていらっしゃる、とここで思った方、残念でした。

「嫌だ」と「大丈夫」が、「原発(事故)」のことと思って読めてしまうが、実は違うのである。

この上の発言は、実は、これは糸井が「ふだん」やっていることなのだそうだ。

要するに、いろいろな角度からモノを考えてみる、ということの言い換えである。

そして「大切な判断のとき」(15ページ)は、そうではない、と糸井は言う。

「正しい方を選ぶ、っていうときに考え方の軸になるのは、やはり科学的な知識だと思うんですよ」(15ページ)

つまり、ふだんは結構「非科学的な知識」も大事だが、原発事故に対する判断のような場合には「科学的知識」に依拠する、と述べているのだ。

ここでいう「非科学的」というのは、「わからないから怖い」(16ページ)といった態度のこと、つまり、「知ろう」とせずに、考えようとせずに、最初から自分の感じたことで判断している、ということのようである。

この本は、少なくとも、何らかの専門性をもっている人間を対象とはしていない。漠然とした不安をもって原発事故に接している人なのである。

「放射線のことを闇雲に怖がっていても先に進めないんです。いま必要なことは、事実を知って正しく怖がることなんだと思います。」(22ページ)

結局「正しく怖がる」という言葉に集約される。ただこの「正しく」というのが、そう簡単なことではない。「科学的」という一言ではなかなかまとめきれない。

本書では、ただ一か所においてのみ、糸井の「ホンネ」が語られている。

「あえていえば、なくてまったく問題ないなら、ないほうがいいですよ、原発なんて。でも、それは「はい・いいえ」だけじゃ言えない」(23ページ)

私にとっては本書は、この箇所がなければ、うまく読めなくなってしまう。この「ホンネ」があっての「正しく怖がる」であるし、「科学的」である、ということが、私にはとても大事である。

「本当に問題を解決したいと思ったときには、やっぱりヒステリックに騒いだらダメだとぼくは思うんです。」(45ページ)

ここで「ヒステリックに騒ぐ」のは、普通の人のことではなく専門家のことで、冒頭の「全部嫌」ということになるのだろう。または「非科学的」ということになるのだろう。

糸井の言葉はそれこれ「非科学的」であり、本当は「全部嫌」という前提があることがわかる。だからこそ、それでは「ダメ」だと言いたいのだ。こうした言い回しを受け取ることがあまり私は得意ではない。

むしろ早野の言い方のほうが、このあたりの微妙なところを的確にとらえていると思う。基準値の扱い方について、次のように述べる。

「年間5万ベクレルまでというのは、ある意味、安全なレベルなんですよ。その人が親しんできた今までの食文化を否定するほどの量じゃないともいえます。だから、そのときはむしろ積極的に「食べるな」じゃなくて「ここまでなら食べていいよ」と言ってみるのはどうか、と」(81ページ)

ただし(この「ただし」が本当に大事である)、こうした説明は、政治家や専門家が公に言うようなコメントではない、とする。

「あくまでも主治医と個人の患者、というような個別の現場でしかあり得ません。」(83ページ)

そう、こうした前提をもたない専門家があまりにも多いため、実際に混乱を増長させてきたのであり、その混乱を解消するために、今度は、その反対の考えを「ヒステリックに」語るほかなかったのである。

これは大変なことである。

糸井のいう「科学的」という次元とは異なる、コミュニケーションの問題であり、相手によって相当言い方が変わってゆくはずのものである。ところがこれを糸井は「ヒト」の問題へとずらしてゆく。

「それを言っている発言主体が、みんなから信用されるというような生き方をしていくしかないかな。ずいぶん遠回りですけど」(108ページ)

微妙にしっくりことない(私にとっては)。こういうまとめ方をされてしまうと、もちろん、うなずくほかないのであるが、そんなことで済むのだろうか、という思いも残る。

そうは言っても、こうした本の存在価値はきわめて高いと思う。早野の実践や科学的説明を本書ではじめて知った私であるが、確かに当時、こうした早野のような説明の仕方こそ、原子力保安・安全委や放射線アドバイザーや文科省などがすべきものであったのだ、ということをしみじみと感じる次第である。


知ろうとすること。 (新潮文庫)/新潮社
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会場音楽:坂本龍一 展覧会:無限旋律2016 広川奏士 TIMESCAPES 2016 

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展覧会:無限旋律2016 TIMESCAPES 2016 

広川奏士 
会場音楽: 坂本龍一 
会場: 大正大学(西巣鴨)

詳しくはこちら

原発に関するインタビューはこちら

静かな空間に、静かな音楽、静かな作品。


動物(犬)と人との共生としての死——天国からはじまる物語(ガブリエル・セヴィン)を読む

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読んだ本

天国からはじまる物語
ガブリエル・セヴィン
堀川志野舞訳
理論社
2005.10

ひとこと感想

学生に勧められて読んだ。人の生死だけでなく、そこにペットの犬の生死が絡んだ物語。人間のみならず動物(犬)も死後の世界をともに生きる点において画期的である。

著者は1977年生まれの米国人。父はロシア系ユダヤ人、母は韓国人。

***

これまでの関連した議論

私たちにとって「動物」とは何者であるのか
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12105560213.html

動物と人間の区別――レヴィナスの場合
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12110081477.html

動物には心があるの? 人間と動物とはどうちがうの? フォントネ 2006
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12115457910.html

「生類」 に見られる江戸時代の動物/人間観――生類をめぐる政治 塚本学 1983
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12114802606.html

ショーペンハウアーにおける人間と動物の差異
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12100959081.html

思考する動物たち 人間と動物の共生をもとめて ジャン=クリスト・バイイ
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12110863265.html

***

本作は、純粋に、「いのち」もしくは「生きている」ということへの愛しみを思い出させてくれるという意味で、とても美しい作品だ。

「味わう」というのか、その世界に「浸る」のは、それぞれみなさんで読んでいただくとして、ここでは、ただ、この作品に現われている、「人間」と「動物」との差異をめぐる問いに対する、一つの「リプライ」として以下、記述する。

タイトルにあるとおり、主人公である16歳のベスは、天国への階段ならぬ天国への海を船で渡るところから物語ははじまる。

本作における「死生観」というものは、こうだ。

人はみな、死ぬと「ELSEWHARE」(ドコカ)へやってくる。

しかし「ドコカ」は、現世とも一般的に言われる天国とも、以下の一点において、大きく異なる。

それは、死んだ時点から、どんどん、年齢が下がってゆく、若返ってゆく、という原則で成立しているのである。

現世は、少しずつ年取ってゆく。天国は永遠に年をとらない。ドコカは少しずつ若返ってゆく。

100歳で亡くなった人は、そこから100年間、ドコカで暮らす。

16歳で交通事故で亡くなったベスは、16年間、このドコカで生きることになる。

では、たとえばベスがドコカへやってきて16年経つとどうなるのか。

また海を渡って現世に「いのち」がもどってゆくのである。

そのときはベスは再び赤子になっており、周りの人の力で現世へと戻されるのである。

そして現世では、その「ベスのいのち」は、別の生き物へと入り込むかのように描かれている。

すなわち「ベス」という身体は現世では一度きりの人生しかないが、ベスの「いのち」は、繰り返し繰り返し、別の肉体のもとで何度も人生を送るのである。

これだけでは、ちょっとだけ変わった「死生観」ということで話は終わるところであるが、本作が興味深いところは、ここに「動物」(犬)が関与している点である。

二つある。

一つは、人間はドコカでは犬の言葉を理解し会話ができる人がいるということ。

もう一つ、犬もまた、人間と同じように、ドコカにやってくると、次第に若返ってゆき、そしてまた、現世へといのちが帰ってゆく。

残念ながら作者は、それ以上物語をややこしくしないようにするために、犬以外の動物についての言及を一切避けているが、おそらく、ネコもまた、同じようにドコカでは次第に若返ってゆくと思われる。なぜならば「ペット担当課」という部署があるからである。決して「犬担当課」ではない。

しかしでは、馬は豚は、猿は、鳥は、魚は、微生物は????? ペットとは、結局「人間」のパートナー、家族と人間が思うような生き物までが該当するかのようである。a

というところには本作は踏み込んでいない。

また、もう一点、たとえば、人間のだったいのちは他の動物として生まれ変わることもあるのかどうか、ここも、定かではない。おそらくそのまま同じ生き物として生まれ変わるようである。

そうでなければ論理的におかしくなる。なぜならば、現世とドコカとが「対」の関係になっていることが仕組み上理解できるわけだが、そうなると、わざわざ往復したのちまったく別の生き物になる理由がなくなってしまうのである。

またはこれまでの死生観とは全く異なるものとして、「いのち」とは単に現世だけではなく、往復することではじめて「いのち」なのだという考え方もある。

だが、これは「現世」にいる人間には永遠にわからない(ただしベスの弟はドコカにいるベスの声を聴くことのできる才能があるようだ)。

いずれにせよ、本作は、少し変わっている。

人間の死生観として言えば、少なくとも伝統的なユダヤ・キリスト教的なものとは大きく異なる。

ドコカは伝統的な天国とはまったく異なる価値観から成り立っている。

そして、人間と動物との差異についても、同様に、伝統的な西洋の観念とは異なる。

犬にも感情がある、といった箇所がある。「感情」とはすなわち、「痛み」を感じることができるということとほぼ、同じことであるように思われる。

私は今、家にいるネコ「ゆいた君」をみる。

ゆいた君は、私にまなざしを返す。

まだ、今晩のごはん、もう一回目もらっていなよ。

ゆいた君は訴えている。

あ、ごめん、ごめん、私はゆいた君に謝りながらごはんをあげる。

ああ、そうか、私はゆいた君と会話をしているんだ、ということに、あらためて気づいたのだった。



天国からはじまる物語/理論社
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原子力と世界平和 仁科芳雄 改造 1950.08月号 

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読んだ論考
原子力と世界平和 原爆投下5周年に際して
仁科芳雄 
改造 
1950.08月号 
(引用は「日本原爆論大系第7巻)


ひとこと感想
戦後5年を経て「世界平和」を原子力の側面から考察した論考。

***

大きな戦争が起こったというのに、また、さらに大きな戦争の不安が高まった、というよりも、この「大きな戦争」は、すでに「戦争」ではなく、「世界滅亡」ではないか、というのが、戦後の共通感覚であったのではないか。

「西と東との国際情勢に対して、原子力、殊にう原子爆弾がどんな役目を果たしてきたか」(11ページ)

まず、広島、長崎に原爆を実際に使用したことについて、戦争という状況において是非は今なお割れたまま論じられており結論は出ないが、その結果として、被害の実情を知ってしまうと、「誰でも将来は原子爆弾を武器にとして使用してはならぬという結論に到達する」(12ページ)。

だが同時に、この「原子力」は「科学、技術に利用せられて人類の福祉をますことも疑いのない事実である」(12-13ページ)ととらえる。

ここに「原子力の平和利用」という一つの「旗印」が誕生する。

しかし当然のことながら、それを使用し、かつ一方では核実験を行っている国が、戦争には使用してはならないと各国に訴えても、何ら信憑性がないことは、今から見ると当然であるが、当時この「二枚舌」があたかもきわめて理性的な選択であるかのようにとらえられてきた。

実際、米ソの核開発競争はその後、とどまることを知らなかった。水爆がそして、生み出された。

そこで仁科の結論は、こうである。

「原子力の開発というのは、放射性アイソトープを除いては、今日までのところでは平和に対しては寄与していないというべきであろう。」(21ページ)

どうなのであろうか。物理学者として、そして、戦時中にまがりないにも軍部から原爆開発の可能性を打診された責任者として、仁科は、一体どういう思いで、この5年間をみていたのか、この文章からだけではあまりうまく掬い上げることができないように私には思われる。

端的に仁科のなかでは、科学技術に対する絶対的な信頼感は揺らぐことないあり、戦争に利用されることに対しては、ある種の不幸としてしかとらえられていなかったのではないだろうか。

本来「平和的利用」という言葉には、単に国際紛争を武力で解決しようとするときの武器として使用してはならない、という思いだけではなく、原子力が私たちの暮らしに大きく寄与するということを夢として描いていたはずだ。それが、むしろ私たちの生活や生存を脅かすような事態を招いているということを知ったら、仁科はどう思ったことだろう。


日本原爆論大系 (第7巻)/日本図書センター
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廃炉時代が始まった この原発はいらない 舘野淳 朝日新聞社 2000.01

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読んだ本
廃炉時代が始まった この原発はいらない 
舘野淳 
朝日新聞社 
2000.01

ひとこと感想
原発を一緒くたにせず、それぞれの実情をふまえて廃炉にすべき原発をピックアップしている。当然、福島第一も含まれているが、そのさいの決め手は旧式の原発だということ。この点については、今後ももう少し探求しておきたい。

***

廃炉にすべき条件として舘野は、以下の4点を挙げている。

1)大地震発生の可能性が高い地域
2)第一世代
3)事故歴からみて問題のある
4)事故隠しなどによって住民に信頼されていない会社の所有

この4点に該当するのは、以下の原発である。

BWR
・福島第一1,2,3,4,5
・浜岡1,2,3,4
・女川1
・島根1
・敦賀1

PWR
・美浜1,2,3
・大飯1,2
・高浜1,2
・伊方1
・玄海1

原発においては、科学よりも、政治や経済が優先されてことが運んでいるが、これを科学有線に引き戻さなければならないと舘野は考えている。

そのうえで、長期的展望にたてば、安全な次世代炉開発の道を提言している。

***

舘野の主張については、これまでも何度かとりあげているので、以下を参照。

シビアアクシデントの脅威 科学的脱原発のすすめ(舘野淳)を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12050243170.html

福島事故と原子力開発史(舘野淳)――福島事故に至る原子力開発史 、より
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12038645369.html

現在進行形の福島事故――終わりのない追及と追求
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12055477018.html

地球をまわる放射能 核燃料サイクルと原発 市川富士夫、舘野淳 大月書店 1986.07
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12088476172.html

***

ここでは特に、福島第一原発についての舘野の評価をみておこう。

「もし集中立地と行うのならば、事故のさいの防災対策を考えれば、少なくとも半径30キロ程度の中では特別な人口抑制策がとられるべきだろう。」(88ページ)

万が一の事故に備えるために「人口」も制限されるべきという考えである。

また、「さらに問題なのは、こうして部品を次々に交換することによって原子炉の寿命がのびたとする考え方」(91ページ)とある。

逆に言えば、40年以上使用してきても廃炉にしない理由は、こうした部品交換にあるということなのだろうか。

いや、そうではないようだ。舘野は、元々の原発の寿命は20年ほどと書いている。それがいつのまにか30年、40年といわれるようになり、さらには60年を主張する人もいるようである。

舘野の目から見れば、当時(1997年において)福島第一は、17-25年の運転年数で「使い古しの原発」(91ページ)と呼んでいる。

「使い古しというだけでなく、タイプや材料が古い、設備利用率が低いという点を合わせると、言葉は悪いが「ポンコツ」原発群といってもよいだろう。」(91ページ)

これは「福島第一」6機全体に対して述べられていることである。

以下は、各号機に対するコメントである。

1号機
事故や故障は68件(以下、すべて1997年までのデータ)、年平均2.5回で、BWR中敦賀1についで2位。

以下、時系列で事故についてふれられているが、まとめると多いのは、以下のものである。

・応力腐食割れによる配管類の破損
・弁類の不良
・燃料破損
・電気回路の故障

2号機

事故・故障は42件。

聞き捨てならない文章がある。

「この原発では給水ポンプや復水ポンプが故障して原子炉圧力容器の水位が低下し、原子炉は自動停止、ある場合にはECCSが働くという似たパターンの事故を繰り返している。」(100ページ)

ECCSについては原発事故においてはむしろ、2号機はなぜかもっとも作動していたといわれているが、どうしてであろうか。1997年から2011年のあいだに何か起こったのであろうか。

3号機

事故・故障は24件。

4号機

事故・故障は10件。

5号機

事故・故障は18件。

6号機

事故・故障は14件。

明らかに1号機と2号機の事故の回数が多い。

***

なお、舘野は最も止めるべき原発は、地震問題からして浜岡を第一に挙げている。そしてその次に、旧式の原発として、福島第一などが挙げられている。

***

目次        
第1章 ハイリスク=テクノロジーとしての原子力発電
・茨城県東海村核燃料製造施設ジェー・シー・オー(JCO)臨界事故の恐怖
・なぜ日本の原発は増えるのか
・原子力発電をどう評価するか
・原子力発電をどう評価するか
・「軽水炉」だけが原発ではない

第2章 原発を点検する
・原発の安全性は
・欠陥と老朽化が目立つ初期原発―東京電力福島第一原子力発電所
・再循環ポンプの大破損―東京電力福島第二原子力発電所
(以下略)

第3章 動燃事故で崩壊した日本の核燃料サイクル政策
・再処理工事=「放射能化学工場」の困難さ
・プルトニウムは天与の資源か邪魔者か
・「夢の原子炉」高速増殖炉の失敗
・「プルトニウム=リサイクル」は「紙上」の楼閣
・プルトニウムの愚かな利用法「プルサーマル」
・頭の痛い放射性廃棄物の処理・処分
・「当面再処理をしないこと」が最上

第4章 非民主的体質を生んだ原子力開発史
・原子力導入のいきさつ
・激しい論争と拡大路線
・二つの巨大事故 
・見直しが始まった?


廃炉時代が始まった この原発はいらない (リーダーズノート新書)/リーダーズノート
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Don't Follow the Wind 展覧会公式カタログ Chim↑Pom 2015.09

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読んだ本
Don't Follow the Wind 展覧会公式カタログ 2015
Chim↑Pom + 椹木野衣 + Don't Follow the Wind実行委員会 編著
河出書房新社
2015.09

展覧会概要

会期 2015年3月11日-20XX年X月X日 
会場 東京電力福島第一原子力発電所事故による帰還困難区域内
発案 Chim↑Pom

***

ひとこと感想
この、大声でその名を言うのがためらわれる「Chim↑Pom」による本(展示会カタログ)。福島第一原子力発電所付近の帰還困難区域を舞台とした、いつか来る帰還困難指定解除によってようやく観ることができる展覧会の全容。

「目を閉じて  鑑賞して」と確かに書いてある。

何を「鑑賞」するのか。それは、「帰宅困難区域」として封鎖されている場所に置かれた「Dont Follow the Wind」の作品を、である。

つまり、これらの作品は「封鎖」が解除されるまでは、基本的に「鑑賞」することができないし、たとえその時がやってきても「鑑賞」が望まれうるのか、甚だ心許ないというのは、現状であろう。

「晴れの日も、雨や雪の日も、繰り返される数えきれない日々をこの街とともに過ごしていくこの展覧会は、封鎖が解かれるまでは一般に直接みられることなく開催されていく。」(29ページ)

言わば、「不可視の展覧会」なのである。

いや「展覧会」という言葉も不適切だろう。

まさしく「モニュメント」という言葉が似つかわしい。

しかし重要なのは、そうした「モニュメント」そのもを「見る」ことではなく、その「場所」に「思い」を寄せることである。

(なお、不定期に世界各地に「ノン・ビジター・センター」を設置して展覧会が行われる。ほか、ウェブでも関連する情報発信が行われている。たとえば2015年秋にはワタリウム美術館で展覧会が行われた。)

***

目次
美術と放射・能 「Don’t Follow the Wind」展の旗が立つ位置
 椹木野衣

椹木野衣は、以下のような対比表を示している。

美術 放射能
美術作品 放射性物質
放射線 美術の力

「Don’t Follow the Wind」展参加アーティスト
アイ・ウェイウェイ 
 太陽光システムの作品「希望の光」
 写真のインスタレーション「家族アルバム」
グランギニョル未来
 車両「デミオ福島2015」
 芝居(?)
小泉明郎
 「人間」
タリン・サイモン
 ?
竹内公太
 写真と部屋「タイム・トラベラーズ」
竹川宣彰
 木材、陶器「時を超える電気」
Chim↑Pom
 写真「青写真を描く」
ニコラス・ハーシュ&ホルヘ・オテロ=パイロス
 「Radioactive But」
トレヴァー・パグレン
 ガラス「Trinty Vube」
エヴァ&フランコ・マッテス
 写真「Fukushima Texture Pack」
宮永愛子
 ガラス、呼気、縄「留め石」
アーメット・ユーグ
 「once upon a time breathing apparatus for breathable air」

DFWに寄り添う
 宇川直宏
 園子温
 加藤翼

キュレーターが「みた」DFW
 窪田研二
 ジェイソン・ウェイト
 エヴァ&フランコ・マッテス

福島の現状―来る・な
 緑川雄太郎

実行委員会座談会
DFWをもっと深く「みる」ための21のキーワード
年譜 3.11からDon’t Follow the Wind展ができるまで
DFW関連資料・アーカイブ



Don’t Follow the Wind: 展覧会公式カタログ2015/河出書房新社
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地方創生の正体 山下祐介、金井利之 ちくま新書 2015.10

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読んだ本
地方創生の正体 なぜ地域政策は失敗するのか
山下祐介、金井利之 
ちくま新書 
2015.10

ひとこと感想
東日本大震災と原発事故のあとの「復興」そしてその後の「地方創生」に対する批判書。厳しい時代だ。

***

私たちにとっては、都市・地域・環境社会学(山下)と都市行政学(金井)の違いがよく分からないが、要するに、社会学と政治学の違いなのであろう。

本書のテーマは「地方創生」や「震災復興」を素材とした「地域社会の統治構造」と書かれている。

「地方創生」は2014年8月頃第二次安倍政権が言い出したこと、「震災復興」は2011年3月以降に民主党政権においてはじまったこと、そして、「統治構造」とは「国/自治体/市民」の関係性ということである。

「はじめに」で述べられている、驚くべきことは、こうである。

「震災や原発事故から時間が経過するにつれて、津波被災地においても、原発被災地においても、「被災者の復興」に向かわず、むしろ震災前まで暮らしていた人たちを排除する方向で「復興」が進みつつある」(8ページ)

しかもこれが「震災復興」に加えて「地方創生」という「国の政策」が後押しをし「それぞれの地域社会で奮闘する人たちの活動を妨げ、地域社会における市民生活の維持をかえってこんなにさせようとしている」(8ページ)という。

…とここまで読んでいきなり、この「はじめに」の文章が、二人の著者いずれかもしくは両方ではなく、「自治体再建研究会」という名のもとに書かれていることに気づく。

とはいえ、これはすなわち山下と金井の二人の文章ということになるのであろう。

「自治体再建研究会」は在野の研究会で、青山彰久、荒見玲子、市村高志、今井照、佐藤彰彦、高木竜輔ほか。

なお、こうした「自治体」が置かれている「岐路」は、いわば、「日本」の「岐路」としても理解されている。

山下は言う。

「このままでは日本という国がとんでもない方向へと行き着くのではないか」(14ページ)

「地域政策のどれもが明らかに失敗に向かっています」(15ページ)

こうした山下の懸念がどこから発しているかというと、近代日本のこれまでのやり方がみな同じで、国が方針を決めると各自治体や人はそれに素直に従うばかりで、そもそも自分たちが何を求めているのか、何が得られるのか、ほとんど考えなしに進んできたのではないか、という考えによっている。

ところで「地方創生」とは何か。

人口と仕事を増やすことである。

だが、仕事はさておき人口は、国全体としては明らかに減少することが知られている。

自治体によって「増えた」「減った」は分かれるが、全体的には、「減った」方が多いに決まっているなか、「増えた」と言える自治体を増やそうという、かなり無謀なことを述べている。

「自治体にとって必要なのは、自分の頭で考えて、国の定めた「地方創生」という土俵に上がらないことなのです」(金井、23ページ)

金井はこのこと自体が間違っている、と言いたいようであるが、少し冷静になってみれば、すでに山下のパースペクティブというものがはっきりとここに打ち出されていることがわかる。

すなわち、今後の日本の社会において人口が減少することは避けられない、ということである。

そしてどうやら「国」(もしくは現政権)はこの傾向に歯止めをかけたい、と願っているかのようである。

ところが国が行うことは、実質的に悪影響を及ぼしていると金井はとらえる。

たとえば「プレミアム付商品券」という企画を打ち出し、「地元」の商店街に金が落ちるようにした。

しかしこの金は要するに税金で集めた金であり、それをただ再分配しているだけで、何ら有効に利用しているわけでもないし、創造的な、活性化につながるような施策を行ったわけでもない、と金井は批判的だ。

しかもこうした「ばらまき」は従来のものとは大きく異なり、数値目標(「KPI」というのだそうだ)を設定し、後に達成度合いを確認することになる。

要するに国は各自治体を競わせて、ただでさえ全体的には減少する人口をとりあう競争を行え、と指示を下しているのである。

「本当の地方創生は、国とは無関係に、自分たちで自主・自立して考える、ということです」(26ページ)

夕張の例が出てくる。1980年代に「炭鉱から観光へ」とシフトチェンジしたときは国は絶賛していたが、経営難に陥るとまったく手のひらを返した。それが国やマスコミのいつものやり方で、自治体のことを真剣に考えていない。

かつての「計画」は、とにかく未来は明るく、人口のみならず、数値という数値はすべて上昇することが前提となっていた。

しかし現在、そうした数値を掲げること自体が困難であることは想像に難くない。

にもかかわらずそれを推し進めようというのは、一つの政治的態度であり、それを支持するかしないかがわかれるところであろう。

また、プレミアム付商品券のほか、どういったアイデアが今、出ているのか。

日本版CCRC、というものもあるようだ。これは首都圏の高齢者を地方に移住させるもので、そのための医療介護などのケアのための施設や人も地方に移るだろうことが期待されている。だが、金井はこれにもあまり関心を示さない。

むしろ大事なのは、人口減を前提としたうえで、いかに地域社会を維持・運営していくか、である、という地点に舞い戻る。

ここには発想の転換が必要であり、たとえば「人口の数え方」を変えるというやり方もある。

単にそこに住居があるだけでなく、そこで働いている場合も「数」に入れるような「二重住民票」の仕方や、海外からの観光客など、人の出入りを活性化し、そうした「数」も加えること、これは、どの自治体もお互いに潰しあうのではなく、助け合うことが可能になる。

ゲゲゲの鬼太郎は調布市民であり、その他「ゆるキャラ」も「特別住民票」を持っている場合が多いという。

であるならば、今後は、SNSで自治体のコミュニティをつくり、そこに登録した人に「特別住民票」を配布するとか、死者でも名誉自治体メンバーは銅像となり、そのまま「住民」として数を減らさないとか、さらには、ペットやロボットなども是非とも「人口」に加えてもらいたい、というのは私のアイデアである。

今後の自治体の構成メンバーは、こうなる。

定住人口 + 交流人口 + 想像上のキャラクター 
+ ウェブ空間におけるネットワーク + 死者 + ペット + ロボット

***

地方自治体が生き延びるためには、結局のところ、国とのやりとりにおける「計画」にふりまわされることなく、自らのビジョンをしっかりと定め実行してゆく「内発的発展」を遂げる以外に道はない。

たとえば、避難自治体のシナリオ策定というものがある。決して一つのものに決めるのではなく、相矛盾するものも含めて多層化しておくのだそうだ。具体的には、こういうもの。

シナリオ1 没入(焦燥)
スタンス 思考停止/作業への没入
復興 既存自治体の再生産=事故前に戻りたい
自治体の性格 国策と親和的/事業利益享受

シナリオ2 被害者(憤怒)
スタンス 責任追及/補償・賠償
復興 被害住民の賠償請求団体としての自治体
自治体の性格 国策の犠牲者/被害住民の代弁者・代行

シナリオ3 反省(悔恨)
スタンス 原発誘致・安全神話への反省/過去との決別
復興 脱ゲ発・再生エネルギーへの転換
自治体の性格 原発等は否定/立入規制主体としての自治体

シナリオ4 凍結(時機、時を待つ)
スタンス 安易な「恢復」を求めない/焦らない
復興 自然減衰を待って地域を再建する
自治体の性格
 空間の現状凍結/管理主体としての自治体

***

以上は、主に金井の論点。山下は、まず、選択と集中、競争、淘汰、という言葉にかかわるものは危険だとみなしている。これらに共通しているのは「排除」ということになる。この「排除」は中央(国)への「依存」の結果生まれている。そのため、「論理による対抗」が必要である。しかし山下の言うことがあまり「論理」的ではないのが少し気になる。

「多様なものが多様なままに生きていくこと。その可能性を探ることです。そのときに重要になるのは自立です。」(75ページ)

この「自立」とは、むしろ、地方のほうがあるのではないか。都心のほうが自立していないのではないか。

「すべてを経済の論理で判断し、金もうけに人をかきたてるから、暮らしが回らなくなってきている」(77ページ)

このあたりであらためて「大国経済」の維持よりも、ふるさとや地域、暮らしを守ることが優先されるべきだということを強調すべきだ、というのが山下の発想である。

***

原発事故がもたした「地域」問題は、深刻だった。

第一に、原発事故は結果的に責任が東電や国になく、「災害」とみなして対応を行っていることに端を発している。

第二に、原状回復を前提とするため、避難した人たちは元の場所に帰る以外の選択肢を出さなかった。

第三に、そういいながら避難生活が長期化したことにより、原状回復や帰還よりも、避難生活そのものへの対応が求められ、結果的には二択となった。

しかし現実的には帰還か移住かを決められないまま「避難」を続けている人が多く、ここに第三の選択肢も必要だとする(金井)。

・・・と議論は続くが、前半の金井の二つの論考が面白かったものの、その後の二人の対談は、今ひとつである。それは、事例と論理がごちゃごちゃになって議論がぼんやりしているからである。

私に理解できるのは、ほんのごくわずか、彼らが提示する枠組みのようなものくらいである。すなわち、第一に、これは吉本隆明が述べていた「共同幻想」の問題だということである。

「国家」「政権」「官僚」「地方行政」といった、一見はっきりとした「誰か」がイメージできるようなものが言葉としてあるが、その実態は、個人の意志や欲望が積み重なったものではなく、むしろ逆で、誰のものでもない意志、欲望が表わされているということである。

厄介なのは、こうした「共同意志」が実質的にその成員全体の「意志」のある種の「集約」とみなされるにもかかわらず、その実態は「集約」されていないどころか、誰の「意志」でもない、というとてつもなく妙なことになることがあることである。



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データでわかる 世界と日本のエネルギー大転換 R・ブラウン 岩波ブックレット 2016.01

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読んだ本
データでわかる 世界と日本のエネルギー大転換 
レスター・ブラウン
枝廣淳子 訳
岩波ブックレット 
2016.01

ひとこと感想
基本的なデータに基づきながら、世界各国で進められている脱原発・脱化石燃料の動きを紹介。R・ブラウンの「大転換 新しいエネルギー経済のかたち」の内容をもとに、枝廣が再構成したものというが、おそらくほとんど枝廣の本ではないだろうか。

***

ブラウンは、1934年米ニュージャージー州生まれ。74年ワールドウォッチ研究所を
創設。また2001年アースポリシー研究所を設立、所長に就任。「環境的に持続可能な発展」の概念「プランB」を提唱、環境問題のオピニオンリーダーとして活躍した。

枝廣は、1962年京都生まれ。東京大学大学院教育心理学専攻修士課程修了。環境ジャーナリスト、翻訳家。幸せ経済社会研究所所長。東京都市大学環境学部教授。訳書に「アル・ゴア未来を語る-世界を動かす6つの要因」など。

***

地方創生とローカルエネルギー

再生可能エネルギーは、地方で生まれ、地方を支え、地方を生かすものである。

「発電」に関して「バナキュラー」と言えるのは、太陽の日差し、風、河川の水、地熱、森林資源などによる再生可能エネルギーしかない。

これまでの「地方創生」とは、たとえば福島県の場合、火力や原子力が主だったものだった。

これをどこまで各地域に根差したものにすることができるか。

世界風力エネルギー協会は「コミュニティパワー三原則」を以下のように定義している。

・地域の利害関係者がプロジェクトの大半もしくはすべてを所有している
・プロジェクトの意思決定はコミュニティに基礎をおく組織によって行われる
・社会的・経済的便益の多数もしくはすべては地域に分配される

さて、今の私にただちに思いつくのは、グリッド(送電網)の問題である。発電はよいとして、どのように導電、配電するのか、この部分がうまく「地域」でつなげられないと、結局、頓挫してしまう。

こうした地域を主体とした再生可能エネルギーの取り組みを促進しようという条例をもっているのは、以下の自治体である。

・湖南市(滋賀県)
・飯田市(長野県)
・八丈島町(東京都)

また、自治体自らが再生可能エネルギーの発電事業者となっているところは、以下である。

・寿都町(北海道)

人口3,200人、一般会計規模40億円に対して、町営の風力発電所は売電収入が約6億円にのぼるという。

次に、小水力発電をはじめようとしているのが、以下である。

・白鳥町石徹白(岐阜県郡上郡)

農業用水路を使っている。

他方、太陽光については、以下がある。

・山都町(熊本県)

10世帯18人の水増集落ではソーラーパークを誘致している。

ほか、徳島県n徳島地域エネルギーは、耕作放棄地や廃校跡にソーラーパネルを設置している。

・南相馬市(福島県)

現在1億キロワットアワーを超える発電が可能なメガソーラー計画が進んでいる。

ただし太陽光については大手が多数乱入して制度が歪んでしまったため、地元のコミュニティ型発電は今、窮地に立たされている。

***

本書は「大転換 新しいエネルギー経済のかたち」の内容をもとに、枝廣が再構成したものである。

「化石燃料に頼る経済」から「再生可能なエネルギーを主な原動力とする経済」への移行が、すでに世界中にみられる。

しかし冷静に考えれば、日本においては、そうではない。

・原発 事故リスク、核廃棄物の問題
・再生可能エネルギー 比率が伸びない、コストが高い
・化石エネルギー 輸入コストやリスクが高い、温暖化問題

前述したように、私が今思うのは、「国」としてのエネルギー政策はさておき、各地域においては、それぞれが独自にエネルギー施策を構築してゆくことが、今後の「地方創生」においては重要なことであるように思われる。

***

目次 
      
加速するエネルギー大転換
古いエネルギー経済の衰退 石油、石炭、原子力
新しいエネルギー経済の隆盛 ソーラー、風力、地熱
勢いを増す世界、遅れをとる日本


データでわかる 世界と日本のエネルギー大転換 (岩波ブックレット)/岩波書店
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原爆の記憶 ヒロシマ/ナガサキの思想 奥田博子 慶應義塾大学出版会 2010.06

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読んだ本

原爆の記憶 ヒロシマ/ナガサキの思想 
奥田博子 
慶應義塾大学出版会 
2010.06

ひとこと感想
現在の視点から、そして「民」の立場から、「ヒロシマ」「ナガサキ」が「国家」のためにいかに奉仕してきたのかという、記憶と政治が論じられている。


著者は、米国ノースウェスタン大学大学院コミュニケーション学研究科博士後期課程修了。南山大学外国語学部准教授。主要論文に「日本における「ヒロシマ」と「ナガサキ」-記憶の抗争」など。

***

最初に「註」の、以下のところが目についた。

一つは、「廣島」と表記するこだわり。「戦時・戦中の軍都として原子爆弾の投下目標とされた広島に言及するとき」(403ページ)にこの表記を用いる。

もう一つは、「ヒバクシャ」。

「広島と長崎の原爆「被爆者」や原発事故による「被曝者」だけではなくウラン鉱石の採掘や精錬の過程に従事する人々、核兵器製造に従事する人々、原子力発電所に勤務する人々やその近隣に住む人々、核実験が行われる場所の周辺に住む人々、そして核廃棄物が投棄ないし処理される場所の周辺に住む人々を包摂する概念として用いる」(403ページ)

また、次に気になったのは、「あとがき」に2020年オリンピックに広島と長崎が共同開催で立候補する計画を公表したという記述である。

これはのちに、JCOから一都市開催を前提とするために共同開催は認められないということになったとのこと。そして、結果的に、東京に決まったわけだが、というのは、何の因果なのか。

***

本書の背景にあるもの、それは第一に、2009年にプラハでオバマ米大統領が行った「核兵器のない世界」を訴えた演説である。

この演説が訴えることはきわめて明瞭である、が、実際のところ私たちはこの表明をどのように受け止めればよいのか、そういった問題意識が本書にはある。

方法論としては、20世紀後半より米国で流行したカルチュラルスタディーズ系のそれであり、個別のものがナショナルなものに吸い上げられてゆく「記憶」(と忘却)と「政治」(とコノミクス)といったところが念頭にある。

当時、仏アナール史学のシャルチエや、米のラカプラやクーンツ、ジェイムソンらと直接お会いして学んできた身としては、こうしたフレームワークそのものにはいささかも驚きはない。

むしろ、つくられた枠組みにうまくあてはめて、うまく解釈したものということができる。

本作は労作であるが、こうした方法論や概念は、ある意味「借り物」でもある。その点が少し、本書への愛着を遮っているようにも思える。

「本書は戦後日本の「平和と経済成長」神話と表裏一体の関係にある「唯一の被爆国/被曝国民」神話の解体を目指すものである。」(xxiページ)

原爆によって殺された人たち 
 (民)   (国家)
 被害 → 犠牲
 私の感情 → 公の国民感情

こうしたきわめて単純化された二分法は、確かに、問題提起としては重要な意味をもっているが、同時に、どこかで「国家」にすべて「悪」を押し付けるような操作のようにも受け取られかねないという難点が表れているように思われる。

少なくとも「原爆投下」の問題を、「ナショナル」な問題にのみ修練させてしまうと、バタイユが、サルトルが、アンダースが、ロールズが、ハイデガーが、マンフォードが問うたことがここには生かせなくなってしまう。

*余談だが、60ページにある「ヴォルター・ベンヤミン」は「ヴァルター・ベンヤミン」の誤植であろう。

***

「本書では、早や65年になる広島と長崎への原爆投下が〈いまここ〉に至るまで何をどのように象徴してきたかを批判的に検証する。」(xixページ)

この文章には三つの疑問がある。

・なぜ「早や」なのか?

誰にとって「早や」なのか。本書を書いた人物にとって「早や」なのか。歴史の風化のようなものを著者が感じ取ってそう言っているのか。私はこれほど風化に耐えて65年を経たことにむしろ驚く。ここでは「早や」でなく、シンプルに「本書を書いている時点で」と書けばよいのではないだろうか。

なぜ〈いまここ〉という表記をしているのか?

著者は知っているのだろうか。「いまここ」というのは、ハイデガーに由来する「ひと」の置かれたところのことを指し示すための言葉ということを。あえて「いまここ」と言わなければならない理由はなにか。「1945年8月から2010年6月(本書の刊行月)に至る」と書けば済むことではないのか。

・なぜ「表象」ではなく「象徴」なのか?

上記二点は正直「レトリック」の問題であり、それほど重要ではないが、この最後の疑問は内容にかかわるもので、看過できない。

広島と長崎への原爆投下」が「象徴」しているもの、と「表象」しているもの、は、まったく異なる。

「象徴」とは「シンボル」のことであり、場合によっては「代理表象」のことも含まれるが、基本的には、「何か」を別のもので言い表すことであるが、「表象」は「リプレンゼンテーション」のことであり、シンボルとは異なり、そのものを言い表そうとした結果生み出された表現のことである。

すなわち「象徴」としてとらえる場合は、現在の視点から過去をみるもので、当時、どういった表象作用があったのかをとらえようとはしない。

もしも私が「象徴」という言葉を使うのであれば、「ヒロシマ、ナガサキ」が何の象徴として、どのように機能してきたのか、という言い方になる。または、
「ヒロシマ、ナガサキ」が何を表象し、どのように機能してきたのか、という言い方になる。

さらにはこのあと、「核時代においてヒロシマ/ナガサキが象徴する普遍性」(xxページ)というが、この「普遍性」がわかりにくい。

続けてこうある。

「広島と長崎に原子爆弾が投下された体験をもつ国民的な反戦/平和感情を象徴する「唯一の被爆国/被曝国民」神話と軽武装で経済に専念して経済規模の拡大を推進する「平和と経済成長」神話とが表裏一体の関係にある」(xxページ)

この文章には二つの神話が表裏一体の関係にあるということが述べられている。

「唯一の被爆国/被曝国民」神話
「平和と経済成長」神話

これは吉見なども指摘していたように、以下のように言い換えられる。

・原子力の軍事利用としての原爆による被害
・原子力の平和利用としての原発の推進

すなわち、「日本」は原爆の被害を受けたからこそ、原子力を平和に利用する責務がある、というレトリックである。

それはそれでよいのだが、ここで問題となるのも「象徴」という言葉である。

「唯一の被爆国/被曝国民」神話とは、広島と長崎に原子爆弾が投下された体験をもつ国民的な反戦/平和感情を象徴している、ということなのか。

今ひとつしっくりこない表現である。言い換えてみよう。

広島と長崎に原子爆弾が投下された体験は、「唯一の被爆国/被曝国民」という神話を生み出した。そして、この神話に依拠してその後、「反戦/平和」という「国民」感情が形成されていった。

少し意味が分かってきた。が、後半は
、「その後、「ヒロシマ」と「ナガサキ」は、「反戦/平和」の象徴となっていった」とした方が、「象徴」という言葉を生かしておりよりよいのかもしれない。

「過去の想起としての記憶」が第一部における著者の論点であり、続いて第二部については「現在のなかにある過去」としている。

「原爆体験の多様性と重層性を批判的に検証」(xxページ)というのは、以下の点をトピックとしている。

・原爆慰霊碑(広島)と平和祈念像(長崎) — 両者の交話機能
・平和記念資料館(広島)と原爆資料館(長崎) — 展示される原爆遺品や原爆写真、原爆資料の展示構成
・平和祈念式典(広島)と平和祈念式(長崎) — 歴代市長の平和宣言と内閣総理大臣の挨拶
・8月6日(広島)と8月9日(長崎) — 全国紙と地方紙

この第二部の検証そのものは、非常に素晴らしい。ただし第8章はもう少し綿密に展開してほしかった。おおざっぱすぎる。

さらに第三部では、「核兵器廃絶と反戦/平和を訴えるヒロシマ/ナガサキの歴史的かつ現代的な意味を検討」(xxiページ)するとし、以下の点をトピックとしている。

・歴史教育
・記念碑、慰霊碑、被爆建造物

***

表紙裏の文章

敗戦/終戦、そして原爆投下から65年。戦後の日本社会において、ヒロシマとナガサキは、一体何を象徴し、神話化してきたのか。本書では、日本の戦争被害者意識を正当化する「唯一の被爆国/被爆国民」という「集合的記憶」を構築し、自らの戦争責任や戦争犯罪に対して免罪符を与えようとしてきた日本政府やマスメディアが、被爆地をどのように表象してきたのかを詳細に分析する。原子爆弾の投下と被爆の人類史的意味を批判的に検証していくなかで、国境と世代を越えて、ヒロシマ/ナガサキを私たち自身の問題として引き受け、考えていく意義を明らかにする。

目次        
第1部 軍都「廣島」「長崎」からヒロシマ/ナガサキへ
・なぜ広島と長崎が原子爆弾の投下目標となったのか?
・広島と長崎では何が起こったのか?
・広島と長崎はどのように想起/忘却されてきたのか?

第2部 日本のなかの「ヒロシマ」「ナガサキ」
・爆心地を再生する―広島と長崎の戦後復興
・歴史/物語を保存する―広島平和記念資料館と長崎原爆資料館
・記憶を記念=顕彰化する―広島平和記念式典と長崎平和祈念式
・過去と物語・記憶を表象する―全国紙vs.地方紙
・原爆体験を思想化する―かつて、いま、そしてこれから

第3部 グローバル化のなかのヒロシマ/ナガサキ
・検定歴史教科書のなかの原爆投下
・「記憶の場」のなかの原爆体験)
・結論


原爆の記憶―ヒロシマ/ナガサキの思想/慶應義塾大学出版会
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