とあるおうちのカエルコーナーがクリスマスバージョンになっていた
読んだ本
知の失敗と社会 科学技術となぜ社会にとって問題か
松本三和夫
岩波書店
2002.05
ひとこと感想
主なテーマではないが本書では、原子力を「STS」すなわち科学技術社会論の見地から検討している。ここには一見客観的な科学言説であるかに装った発言はない。しかし今一つ方法の根拠がよくわからないのと、文体が硬いこともあり、うまく理解できなかった。
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科学技術がもたらした深刻な社会問題が無数に現われた。
具体的な打開策を示すもの、将来は科学の力で何んとかなると楽観視するものもあるが、私たちの不安が解消されるには至っていない。
言ってみれば、科学の言葉が、信頼、信用を失いはじめているのではないか、それを「知の失敗」と呼ぼう、というのが松本のアイデアである。
「知の失敗」は多岐にわたり、本書もさまざまな例が挙げられているが、ここでは、核に限定して、その内容をピックアップしておきたい。
最初に、原発事故の話題が登場する。
「人災の背後にあるものが、発電用原子炉を設計し、建設し、運転し、維持し、利用し、評価する、訓練の背景も利害関心も異質な人びとからなる科学、技術、社会を貫いて作動する系の特性である」(4ページ)
にもかかわらず、JCO臨界事故が起こっても、「行政機関の権限系統に沿ってもっぱら帰責が争われている」(4ページ)。
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続いて登場するのは「核融合」をはじめとした「新エネルギー技術開発」に関してである。
「新エネルギー技術開発」とは、すなわち、化石燃料を補完もしくは代替するものを指す。
これまでの開発過程をみてみると、原油価格の変動に大きく左右されてきたことがわかる。すなわち、原油が上がると開発意欲が高まり、下がると意欲も低くなるのである。
もちろん20世紀末において、たえず代替エネルギーについてはそれなりに話題にはされてきたが、そうした理想が実際に充分に実用化しているとは、とうてい言い難い。
その一つとして松本は、海洋温度差発電(OTEC)を挙げる。これは、社会において期待されるものの、経済性において見通しが立たず、計画が立ち消えになる。
その一つの要因としては、作動流体としてフロンを使用していたことが、当時、フロンによるオゾン層の破壊という問題に抵触したことにある。
海洋で使われるフロンが事故その他、何らかの理由で海洋に流れることは、致命的なのだが、開発や研究に携わっている人びとにとっては、こうした点が全く見えない。
「こうした事情のもとでは、科学、技術、社会の境界でひかりであったもの(例、再生可能な新エネルギー利用技術の切り札OTEC、夢の物質フロン、さらには代替フロン等々)は、容易に影に転化しうる。」(143ページ)
しかしその後、再びこの「影」の部分は再び「光」に転化する可能性が見られるようになる。
まず、本来の発電という目的にはかなわなかったものの、OTECの要素技術が特許をとり、利用可能性が高まる。
また、大規模発電は困難であるとしても、ローカルかつ小規模な発電を目的とすることにも可能性が見出されるという。
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さらにもう一つ、不確実性を内包するにもかかわらず、すぐには明らかにならないために「知の失敗」に結びつきうる例として、「原子力」(発電)を出している。
「発電用原子炉はエネルギー問題やえ地球環境問題の解決に貢献するといわれる反面、その総合的な安全性、とりわけ増え続けるプルトニウムの処分について確定的な方策が見いだせないまま、すでに日本の消費電力重要の三割以上を担ってしまっている。」(262ページ)
原発を「国策」として進める、と一度決めてしまうと、これが既定路線となり、もしも原発をやめるとすると廃炉への経費が莫大にかかってしまう。
そのため、他の路線に変更することが困難になる。
その結果、規定路線を変えないように既得権益は動くため、選択範囲がより狭くなってしまう。
本当は、プルトニウムの処分について、明確な方法や経費、時間あなどが見積もられてから実行すべきはずのものであるが、そうはならず、見切り発車している。
こうした場合、すでになされている論議がこうした未確定な要因をみないようにしてなされているおそれがある。
そこで、松本は、次のことに留意すべきだと指摘する。
「特定の争点をめぐる科学的証拠が存在する(しない)範囲と、いろいろな立場や前提と政策の選択肢の対に関するできるだけ正確かつ多様な情報を網羅的に一ヵ所にまとめて系統的に保存、整理、分類、更新して万人に供する、機微資料公文書館の設置をもとめたい。」(264ページ)
これは要するに、中立、公平な「公共財としての知の集積所」(266ページ)を編成するということである。
確かにそうしたものはあってほしいが、このブログで私がやってきたことはそれに近いとともに、はるかに遠い。
中立、公平がどれほど大変なことか。
学問を生業としている人たちにおいて、そもそも、どれほどの人が中立、公平であるかというと、私は「皆無」であると考える。
ただし、せめて、「推進」と「反対」でこれほどまでに主張が異なるのは、どうにかしなければならないのは確かである。
できることなら、元来「科学」が有していた「良心」として、対立する考えや結論など、先行研究などの一通りの抑え(サーベイ)をし、そのうえで自分の立ち位置をはっきりとさせる論文記述を科学者が行うか、それができなければ、そうして書かれたものをそうした「全体性」になかに位置づけるような研究が望まれるだろう。
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