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知の失敗と社会 松本三和夫 岩波書店 2002.05

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とあるおうちのカエルコーナーがクリスマスバージョンになっていた


読んだ本
知の失敗と社会 科学技術となぜ社会にとって問題か
松本三和夫 
岩波書店 
2002.05

ひとこと感想
主なテーマではないが本書では、原子力を「STS」すなわち科学技術社会論の見地から検討している。ここには一見客観的な科学言説であるかに装った発言はない。しかし今一つ方法の根拠がよくわからないのと、文体が硬いこともあり、うまく理解できなかった。

***

科学技術がもたらした深刻な社会問題が無数に現われた。

具体的な打開策を示すもの、将来は科学の力で何んとかなると
楽観視するものもあるが、私たちの不安が解消されるには至っていない。

言ってみれば、科学の言葉が、信頼、信用を失いはじめているのではないか、それを「知の失敗」と呼ぼう、というのが松本のアイデアである。

「知の失敗」は多岐にわたり、本書もさまざまな例が挙げられているが、ここでは、核に限定して、その内容をピックアップしておきたい。

最初に、原発事故の話題が登場する。

「人災の背後にあるものが、発電用原子炉を設計し、建設し、運転し、維持し、利用し、評価する、訓練の背景も利害関心も異質な人びとからなる科学、技術、社会を貫いて作動する系の特性である」(4ページ)

にもかかわらず、JCO臨界事故が起こっても、「行政機関の権限系統に沿ってもっぱら帰責が争われている」(4ページ)。

***

続いて登場するのは「核融合」をはじめとした「新エネルギー技術開発」に関してである。

「新エネルギー技術開発」とは、すなわち、化石燃料を補完もしくは代替するものを指す。

これまでの開発過程をみてみると、原油価格の変動に大きく左右されてきたことがわかる。すなわち、原油が上がると開発意欲が高まり、下がると意欲も低くなるのである。

もちろん20世紀末において、たえず代替エネルギーについてはそれなりに話題にはされてきたが、そうした理想が実際に充分に実用化しているとは、とうてい言い難い。


その一つとして松本は、海洋温度差発電(OTEC)を挙げる。これは、社会において期待されるものの、経済性において見通しが立たず、計画が立ち消えになる。

その一つの要因としては、作動流体としてフロンを使用していたことが、当時、フロンによるオゾン層の破壊という問題に抵触したことにある。

海洋で使われるフロンが事故その他、何らかの理由で海洋に流れることは、致命的なのだが、開発や研究に携わっている人びとにとっては、こうした点が全く見えない。

「こうした事情のもとでは、科学、技術、社会の境界でひかりであったもの(例、再生可能な新エネルギー利用技術の切り札OTEC、夢の物質フロン、さらには代替フロン等々)は、容易に影に転化しうる。」(143ページ)

しかしその後、再びこの「影」の部分は再び「光」に転化する可能性が見られるようになる。

まず、本来の発電という目的にはかなわなかったものの、
OTECの要素技術が特許をとり、利用可能性が高まる。

また、大規模発電は困難であるとしても、ローカルかつ小規模な発電を目的とすることにも可能性が見出されるという。

***

さらにもう一つ、不確実性を内包するにもかかわらず、すぐには明らかにならないために「知の失敗」に結びつきうる例として、「原子力」(発電)を出している。

「発電用原子炉はエネルギー問題やえ地球環境問題の解決に貢献するといわれる反面、その総合的な安全性、とりわけ増え続けるプルトニウムの処分について確定的な方策が見いだせないまま、すでに日本の消費電力重要の三割以上を担ってしまっている。」(262ページ)

原発を「国策」として進める、と一度決めてしまうと、これが既定路線となり、もしも原発をやめるとすると廃炉への経費が莫大にかかってしまう。

そのため、他の路線に変更することが困難になる。

その結果、規定路線を変えないように既得権益は動くため、選択範囲がより狭くなってしまう。

本当は、プルトニウムの処分について、明確な方法や経費、時間あなどが見積もられてから実行すべきはずのものであるが、そうはならず、見切り発車している。

こうした場合、すでになされている論議がこうした未確定な要因をみないようにしてなされているおそれがある。

そこで、松本は、次のことに留意すべきだと指摘する。

「特定の争点をめぐる科学的証拠が存在する(しない)範囲と、いろいろな立場や前提と政策の選択肢の対に関するできるだけ正確かつ多様な情報を網羅的に一ヵ所にまとめて系統的に保存、整理、分類、更新して万人に供する、機微資料公文書館の設置をもとめたい。」(264ページ)

これは要するに、中立、公平な「公共財としての知の集積所」(266ページ)を編成するということである。

確かにそうしたものはあってほしいが、このブログで私がやってきたことはそれに近いとともに、はるかに遠い。

中立、公平がどれほど大変なことか。

学問を生業としている人たちにおいて、そもそも、どれほどの人が中立、公平であるかというと、私は「皆無」であると考える。

ただし、せめて、「推進」と「反対」でこれほどまでに主張が異なるのは、どうにかしなければならないのは確かである。

できることなら、元来「科学」が有していた「良心」として、対立する考えや結論など、先行研究などの一通りの抑え(サーベイ)をし、そのうえで自分の立ち位置をはっきりとさせる論文記述を科学者が行うか、それができなければ、そうして書かれたものをそうした「全体性」になかに位置づけるような研究が望まれるだろう。


知の失敗と社会―科学技術はなぜ社会にとって問題か/岩波書店
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日本原爆論大系 第4巻 核兵器禁止への道 I 坂本義和・庄野直美編  1999.06

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(おそらく)ごはんを待つ猫たち

読んだ本
日本原爆論大系 第4巻 核兵器禁止への道 I
坂本義和・庄野直美 監修 
岩垂弘 編 
日本図書センター 
1999.06

ひとこと感想
1954年の第五福竜丸事故がきっかけで
原水爆(核兵器)の廃絶を訴える運動が高まり、その後、社会党と共産党、二つの政党の方向性の違いにより分裂する。本書には両者の言い分が収められている点で貴重である。


***

第1章 占領下の核兵器禁止運動

朝鮮戦争に抗して (以下より抄出)

原水爆時代 現代史の証言(下) 今堀誠二 三一新書 1960.08.06
 前史とでも言うべき、戦後まもなくの(特に1949~50年の)占領下における核禁止運動の様子が描かれている。

ストックホルム・アピール
平和運動20年資料集 平和擁護世界大会委員会 編 大月書店 1969.09
 1950年3月に出された4つの文章からなるアピール。

ストックホルム・アピールの署名運動(1950年)
 (以下より抄出)
原水禁運動30年 熊倉啓安 労働教育センター 1978.08.06
 署名運動についての様子がまとめられている。

***

第2章 ビキニ被災事件の衝撃

邦人漁夫、ビキニ原爆実験に遭遇 23名が原子病 1名は東大で重傷と診断
読売新聞 1954.03.16
 第五福竜丸事故の最初の記事。「談」として、焼津協立病院の大井俊亮医師、東大の中村晃一、都築正男博士、東大助教授の中村誠太郎博士、科学研究所主任研究員の杉本朝雄博士ら。

われわれはモルモットではない 
ビキニの灰は今日も頭上に 
清水幾太郎 
中央公論 1954年5月号
 「私たち日本国民は、ビキニ事件以来、危うく忘れかけていた広島や長崎の経験を生々と思い出し、原爆への恐怖を新たにすると同時に、この間におけるアメリカの態度を通じて、一日一日と、原爆が以降への憤怒を深くしつつある。」(75ページ)

『死の灰』のなかに立ち上がるもの
武谷三男 改造 1954年5月号
 「最近の盛んな爆発実験から、いよいよ水爆が米ソ両陣営とも実用的原子兵器になったということが明らかになってきたが、そこに日本漁船被という問題が新しく提起されて、今度はただ原子戦争が危険だということだけの問題ではなくて、原子兵器の実験そのものすら、大変な問題であることが分かって来た。」(79ページ)

なお武谷は、暗に、米国はこの実験を他国で行い他国に迷惑をかけているが、ソ連は自国内でやっていることで、少しはましであるかのような記述をしている。

水爆とパエトン 
野上弥生子 世界 (
世界に訴える ――水爆実験に関する日本人の発言――) 1954年6月号
 「いま原爆、水爆と夢中になっている人々は、この向う見ずな少年パエトンさながらではないであろうか。」(94ページ)

日本国憲法こそ世界平和への道

関口泰 世界 (世界に訴える ――水爆実験に関する日本人の発言――) 1954年6月号
 「原子力を報復のために朝鮮や中国に落とされては、日本のようなご近所の国は迷惑である。まして軍事基地を貸したり、古兵器をかりたりしている共同防衛体の一部にとっては、迷惑どころの騒ぎではない。」(97ページ)

非人道兵器を廃棄せよ
前田多門
 世界 (世界に訴える ――水爆実験に関する日本人の発言――) 1954年6月号
 「たとえ実験とは言え、いや、実験なればなおの事、この得態の知れない猛獣を野放しに他国人の住所に近い大洋の上で、しかも国際法上に幾多の異論のある禁止区域の一方的宣言だけで、勝手に走りまわらせるというのは乱暴な話」(99ページ)

誰が抗議すべきか
石川達三
 世界 (世界に訴える ――水爆実験に関する日本人の発言――) 1954年6月号
 抗議すべきた主体を、日本の知識人、日本政府、日本国民、国連、ユネスコ、カトリック教団、回教団、仏教団を考えてみて、いずれも頼りにならないと深く絶望している。

アメリカの良心と死の商人たち
石垣綾子
 世界 (世界に訴える ――水爆実験に関する日本人の発言――) 1954年6月号
 米国人のなかでも水爆実験に心を痛めている人がいることを紹介している。

ジュネーブ会議に期待する
高野実
 世界 (世界に訴える ――水爆実験に関する日本人の発言――) 1954年6月号
 「日本国民の過半数を占めていたに違いない再軍備勢力の間に大きな割目ができた。」(108ページ)という発言は、今から見ると、少々驚きである。水爆実験は世論を「平和への希求」という一つにまとめることを可能にしたが、原発事故はむしろ大きく二つに分かれてしまった。

死の灰の不幸をみつめよ

片山哲 世界 (世界に訴える ――水爆実験に関する日本人の発言――) 1954年6月号
 アイゼンハウアーの「原子力の国際管理と平和産業への切り替え」(111ページ)を「喜ばしいこと」としている。

「これはあんまり無茶だ」
阿川弘之
 世界 (世界に訴える ――水爆実験に関する日本人の発言――) 1954年6月号
 外務大臣が米国に対して実験の中止を要請する意向がないことを明言したことに対して。

人類に挑戦するもの
務台理作
 世界 (世界に訴える ――水爆実験に関する日本人の発言――) 1954年6月号
 「人類」という立場に立つことの重要性を説く。

人間の名において
阿部知二
 世界 (世界に訴える ――水爆実験に関する日本人の発言――) 1954年6月号
 「人間の名において、原爆水爆の廃棄、世界の緊張の緩和と戦争の廃止を要求すべき」(120ページ)

理性をとりもどせ
矢内原忠雄
 世界 (世界に訴える ――水爆実験に関する日本人の発言――) 1954年6月号
 「人間の理性をとりもどして、文明をば人間の破壊のためではなく生命のために用いねばならない」(123ページ)
 
水爆実験に協力――岡崎勝男外務大臣 衆議院外務委員会における答弁
質疑者 大橋忠一、答弁者 岡崎勝男 第19回国会衆議院外務委員会議録第59号 1954年9月15日
 国際管理ができない以上、米ソの力のバランスによって平和が保たれていると考え、自由主義陣営としての日本は米国に協力をするという主張がなされている。

慰謝料受託の政府発表と交換公文 
ビキニ水爆被災資料集 日本国政府(鳩山一郎内閣) 第五福竜丸平和協会編 東京大学出版会 1976.03
 「今回米国側が補償する200万ドルは、法律上の責任問題とは関係なく、慰謝料として支払い、その配分は全面的に日本にまかせ、これがビキニ被害に関する日米間の最終的解決として、今後に問題を残さない事にまとまったものである。」(127ページ)

ラッセル・アインシュタイン宣言 (声明)
ビキニ水爆被災資料集 A・アインシュタイン、B・ラッセルほか 第五福竜丸平和協会編 東京大学出版会 1976.03
 これはよく知られてるので、省略

***

第3章 原水爆禁止運動の高揚と分裂

この章は、コメントは省略。ただし、途中で中ソの原爆を「平和勢力」としその社会的意義(有用性)を認める一方、米国の原爆のみを「戦争勢力」とみなす立場を明確にする人たちが現れたことによって、統一的な平和運動としての原水爆禁止運動は終焉を迎えたことは間違いない。

全日本国民の書名運動で水爆禁止を全世界に訴えましょう
原水爆禁止署名運動杉並協議会
歴史の大河は流れ続ける(4) 杉並公民館の歴史〈原水爆禁止署名運動の関連資料集〉 杉並区立公民館を存続させる会 1984.08

原水爆禁止署名運動全国協議会趣意書
原水爆禁止署名運動全国協議会
ビキニ水爆被災資料集 第五福竜丸平和協会編 東京大学出版会 1976.03

原水爆禁止署名運動全国協議会結成宣言

原水爆禁止署名運動全国協議会
ビキニ水爆被災資料集 第五福竜丸平和協会編 東京大学出版会 1976.03

原水爆禁止世界大会に向けての「全世界への訴え」

原水爆禁止署名運動全国会議
ビキニ水爆被災資料集 第五福竜丸平和協会編 東京大学出版会 1976.03

原水爆禁止世界大会のよびかけ
原水爆禁止署名運動全国会議

ビキニ水爆被災資料集 第五福竜丸平和協会編 東京大学出版会 1976.03

原水爆禁止世界大会に結集しよう!
原水爆禁止世界大会日本準備会

ビキニ水爆被災資料集 第五福竜丸平和協会編 東京大学出版会 1976.03

第一回原水爆禁止世界大会宣言
原水爆禁止世界大会
原水爆禁止世界大会 宣言・決議集 原水爆禁止日本協議会 1969.08.06

原水爆禁止世界大会の正常化を望む
自由民主党広島県議会議員会
中国新聞(意見広告) 1959.07.20

第五回原水爆禁止世界大会における日本代表の決議
第五回原水爆禁止世界大会日本代表団
原水爆禁止世界大会宣言・決議集 原水爆禁止日本協議会 1969.08.06

核兵器禁止平和建設国民会議結成宣言
核兵器禁止平和建設国民会議結成大会
核兵器廃絶と恒久平和を求めて 核禁会議30年史 核兵器禁止平和建設国民会議 1994.01

国民運動の論理と倫理の確立を望む 日本原水協理事長辞任についての声明
安井郁
道 安井郁 生の軌跡
「道」刊行委員会編 法政大学出版局 1983.08.06

平和運動を国民の手に
日高六郎
エコノミスト
毎日新聞社
1963年4月9日号

原水禁運動と政党の役割 日高論文を批判する
佐野文一郎

エコノミスト
毎日新聞社
1963年4月30日号

原水協にまつわる黒い影 不統一の根源をさぐる
黒田秀俊

エコノミスト
毎日新聞社
1963年5月14日号

原水協運動は統一できる
内野竹千代

エコノミスト
毎日新聞社
1963年5月21日号

原水爆禁止運動の統一と前進のために
日本共産党中央委員会「赤旗」評議員
アカハタ 日本共産党中央委員会
1963.07.05

原水爆第9回世界大会の成功のために アカハタ「評議員」論文に反論する
西尾勲(日本社会党中央執行委員=国民運動担当)
社会新報
日本社会党
1963.07.28

部分的核兵器実験停止条約について
「アカハタ」主張
アカハタ 
日本共産党中央委員会 
1963.07.29

核停協定の成立を歓迎 社会党声明
社会新報 記事
日本社会党
1963.08.04

核停条約の意味するもの 日本への課題
南原繁
世界 
岩波書店
1963年10月号

この落差を誰がうめるか 広島原水禁大会からのルポ
飯泉栄次郎、竹内静子
エコノミスト
毎日新聞社
1963年8月20日号

第九回大会 国民運動の崩壊と再生への四つの芽
今堀誠二
原水爆禁止運動 
潮出版社
1974.06

中国の核実験は遺憾 岩井事務局長が談話
総評新聞 記事
日本労働組合総評議会
1964.10.23

中国の核実験にかんする声明
日本共産党中央委員会幹部会
アカハタ
日本共産党中央委員会
1964.10.18
 「今回中国政府が核兵器の実験をおこなったことは、中国人民が自国の防衛だけでなく、アジアにおける核戦争を防止するために余儀なくされた防衛的な措置である。」(309ページ)

原水爆禁止日本国民会議結成大会宣言
原水爆禁止日本国民会議
1965.02.01

日本共産党 核保有五カ国へ書簡 全面禁止協定を結べ 開発競争の悪循環断つ道
赤旗 記事
日本共産党中央委員会
1973.07.06

***

第4章 運動の統一と運動のあり方をめぐる論争

以下、コメントは省略。

広島・長崎アピール 被爆の実相究明のための国際シンポジウムを前にして
上代たの、中野好夫、藤井日達、三宅泰雄、吉野源三郎
1977年原水爆禁止世界大会の記録
原水爆禁止統一実行委員会編
1977.12

核廃絶をめざす運動とその展望
広島・長崎アピール 書名人一同

1977年原水爆禁止世界大会の記録
原水爆禁止統一実行委員会編
1977.12

日本共産党と総評の合意事項
日本共産党、日本労働組合総評議会
赤旗 日本共産党中央委員会 
1976.12.28、1977.03.18

5月19日合意書
原水爆禁止日本国民会議、原水爆禁止日本協議会

1977年原水爆禁止世界大会の記録
原水爆禁止統一実行委員会編
1977.12

原水禁運動 新しい転換の時機
吉野源三郎(話し手)、「世界」編集部(聞き手)
世界
岩波書店
1977年8月号

改めて原水禁止運動の基本を問う 再統一は真の統一となりうるか
安部一成

世界
岩波書店
1977年8月号

死者をして死者を葬らしめよ 原水禁問題の基本について安部一成氏への書翰
吉野源三郎

世界
岩波書店
1977年11月号

原水禁運動 よみがえった原点 運動の確かな統一と国際連帯の強化で核兵器の全面禁止を
金子満広

世界
岩波書店
1977年12月号

原水禁運動の統一要求から学ぶ
高桑純夫
月刊社会党 
日本社会党中央本部
1977年8月号
統一問題をめぐる謬論 湯押野源三郎氏らによる名指しの論評に答えて
河邑重光
前衛
日本共産党中央委員会
1977年10月号
民主主義の徹底をとおして新しい社会へ 70年闘争と新左翼の路線めぐって(抄)
松江澄
ヒロシマの原点へ 自分史としての戦後50年 
社会評論社 1996.08

原水禁運動の「統一」にういて 宮崎広島原水禁事務局長への返書
高橋昭博
ヒバクシャのこころ
汐文社
1984.08

***

第5章 NGO被爆問題シンポジウム

国連NGO主催「被爆の実相とその後遺・被爆者の実情に関する国際シンポジウム
よびかけ人
核兵器廃絶と原水爆禁止運動の国民的統一をめざして 重要文献・資料集
原水爆禁止日本k評議会編 1977.07

生か忘却か 1977NGO被爆問題シンポジウムの宣言
1977NGO被爆問題シンポジウム
被爆の実相と被爆者の実情 1977NGO被爆問題シンポジウム報告書 ISDA JNPC編集出版委員会編 朝日イブニングニュース社 1978.09

1977年日本シンポジウムに関するプレスリリース
1977NGO被爆問題シンポジウム
被爆の実相と被爆者の実情 1977NGO被爆問題シンポジウム報告書 ISDA JNPC編集出版委員会編 朝日イブニングニュース社 1978.09


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原発と自治体 「核」害とどう向き合うか 金井利之 岩波ブックレット 2012.03

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(トラネコちゃん、発見)

読んだ本
原発と自治体 「核」害とどう向き合うか 
金井利之 
岩波ブックレット 
2012.03

ひとこと感想
行政学、法学の見地から、原発に対する、そして、原発事故のあとの、地方自治体の関わり方について、原則論を述べる。文章が硬く、読みにくいが、いろいろと学ぶことが多い。避難地域だけでなく、「未災自治体」にも問いかけられている。

***

金井は副題にあるとおり「核害」という言葉を使う。

法律の見地からみると、「公害」であるにもかかわらず、原発事故は、「公害」とは別枠となってきた経緯がある。

原発事故は公害対策基本法や人の健康に係る公害犯罪の処罰に関する法律の対象となっておらず、原子力災害対策特別措置法、原子力損害の賠償に関する法律の対象なのである。

では、「原子力災害」もしくは「原子力損害」でも良いように思えるが、村上は、次のように述べる。

「「公害」に一種である「核害」という用語には、国からの支援・補償を得ることの困難性を想定するという意図が込められている。」(3ページ)

核害には、今回の福島第一原発事故のみならず、以下のものを含み、それぞれ、村上の独自の用語で位置づけられている。

・広島、長崎の被害(
核害的戦災)
・第五福竜丸事件
・東海村JCO臨界事故
・労働者の被曝(核害的労災)

***

「核害」の困難さは、第一に「認定」すなわち、誰が被害者であるのか、どこが被害区域であるのか、ここからはじまる。

「核害」の「認定」の出発点は、屋内退避や避難の認定である。

しかしこの「認定」においては、「区域」で区切られるものの、実際の線量は、もっと細かな空間において差異がある。

また、同心円を描いて~キロ圏内の避難というやり方も、正直言って乱暴であった。

もちろん線量の過多が分からなければ、避難設定は困難な部分があるが、極端な話、万が一のことを考慮して一時避難(数日)をすることを前提とすれば、むしろ風向きや風速などでどのあたりが危険であるかはわかったはずである。

といってもこれは後知恵であって、当時は専門家以外そのようなことを理解していなかった。対策や避難訓練などは、こうした事態にも備えて行われていればよかったのに、と悔やまれる。

それに、各地の線量計も、事故前から各地に設置し、モニタリングが常になされていれば、最悪、その数値の上昇で、各地の人たちや自治体も判断できたように思われる。

また、本書は一貫して「主体」を「自治体」において論じている点で、特異な本である。

原発事故に言及する大半の本は、「個人」を対象とする場合が多い。それぞれの個人がどのような避難をしたのか、どのような大変な目にあったのか、これからどうやって生きるのか。

これはもちろん、もっとも大切な問いであるが、ただし、原発立地や原発事故には、「地方自治体」という「主体」が欠かせない、

本書はその意味では、実際的に原発とかかわる「主体」が置かれた現状、そして今後の対策・対応への重要な問題提起をおこなったものとと位置づけることができる。

***

「自治体」は二つに分けられる。

・被災自治体
・未災自治体

「被災」「
未災」の定義は、第一に「国」が認定する場合があるが、それだけでなく、自治体自体の判断もある。

金井は、自治体自らが実態把握を行うことで不安が解消されるとともに、情報隠蔽など起こされずに済むとし、独自認定を理想と考えている。

今回の場合は、基本的には国側が避難区域と認定したところが、第一に被災自治体となるが、それだけではない。

金井は、加えて、それ以外の自治体(残留自治体、と呼んでいる)のなかでも、h線量が高い区域を含む自治体が数多くある。

その典型例が、避難区域とは別に設定された、除染特別区域と除染状況重点調査地域である。

避難区域のことはまだ少しは知られているが、こうした区域については、実はあまりよく知られていない。まとめよう。

被災自治体
・避難区域
 ・
帰還困難区域
 ・
居住制限区域
 ・避難指示解除準備区域
・非避難区域
 ・
除染特別区域
 ・除染状況重点調査地域


「帰還困難区域」は「放射線量が非常に高いレベルにあることから、バリケードなど物理的な防護措置を実施し、避難を求めている区域」で、双葉町、大熊町、浪江町の大半、富岡町、葛尾村、飯舘村の一部が含まれる(2015年9月現在、以下同)

「居住制限区域」は「将来的に住民の方が帰還し、コミュニティを再建することを目指して、除染を計画的に実施するとともに、早期の復旧が不可欠な基盤施設の復旧を目指す区域」で、富岡町の大半、飯舘村の大半、南相馬市、浪江町、大熊町、川俣町の一部が含まれる。

「避難指示解除準備区域」は「復旧・復興のための支援策を迅速に実施し、住民の方が帰還できるための環境整備を目指す区域」で、葛尾村の半分ほど、南相馬市、飯舘村、川俣町、浪江町、大熊町、双葉町、富岡町、川内村の一部が含まれる。

一方、除染区域が指定されている自治体は、以下である。

岩手県    
 一関市  
 奥州市  
 平泉町

宮城県    
 白石市  
 角田市  
 栗原市  
 七ケ宿町  
 大河原町  
 丸森町  
 亘理町  
 山元町

福島県    
 福島市 
 郡山市  
 いわき市  
 白河市  
 須賀川市 
 相馬市  
 二本松市  
 伊達市
 本宮市  
 桑折町  
 国見町  
 大玉村  
 鏡石町  
 天栄村  
 会津坂下町  
 湯川村  
 柳津町 
 会津美里町  
 西郷村  
 泉崎村  
 中島村  
 矢吹町  
 棚倉町 
  矢祭町  
 塙町  
 鮫川村  
 石川町 
 玉川村  
 平田村  
 浅川町  
 古殿町  
 三春町  
 小野町  
 広野町  
 新地町  
 田村市  
 南相馬市 
 川俣町  
 川内村

茨城県    
 日立市  
 土浦市  
 龍ケ崎市
  常総市  
 常陸太田市  
 高萩市  
 北茨城市  
 取手市  
 牛久市
 つくば市  
 ひたちなか市  
 鹿嶋市  
 守谷市  
 稲敷市  
 鉾田市  
 つくばみらい市  
 東海村
 美浦村  
 阿見町  
 利根町

栃木県    
 佐野市  
 鹿沼市  
 日光市  
 大田原市  
 矢板市  
 那須塩原市  
 塩谷町 
 那須町

群馬県    
 桐生市  
 沼田市  
 渋川市  
 安中市  
 みどり市  
 下仁田町  
 中之条町  
 高山村  
 東吾妻町  
 川場村 

埼玉県    
 三郷市  
 吉川市

千葉県    
 松戸市 
  野田市  
 佐倉市  
 柏市  
 流山市  
 我孫子市  
 鎌ケ谷市  
 印西市  
 白井市

あまりにも多くて、確かに全貌を把握することも大変なことであるが、福島県外に関して言えば、次のように環境省のホームページでは記載されている(2015年9月末時点)。

20市町村
 除染等の措置が完了

29市町村
 概ね完了(一部継続がありうる)

9市町村
 継続    

すなわち、福島県外に関しては、58市町村のうち、9市町村を除いて、ほぼ除染が進んだ、ということである。

ちなみに福島県内には、除染特別区域が11市町村あり、これは国が行う。

ほか、39市町村が除染対象自治体となっている。こちらは1時間あたり0.23マイクロシーベルト以上の区域を指している。

このように、ここに自治体名を列挙したのは、第一に、「避難」ばかりでなく、「除染」を行ったという意味で、これらも「被災地」なのであり、当然のことながら、そこの住民にも健康被害のおそれがあるということである。

すなわち、「原発事故」とは、これだけ広範囲に被災地を生みだしたということを、私たちは知っておかねばならない。

放射線による死者は出なかった、だから事故は軽微に済んだ、という説明は、一切成り立たないことが、これでお分かりであろう。

このことは、私たちは十分に理解しておく必要がある。

おっと、本書の内容から逸脱している。本書はそうした個人の被害ではなく、あくまでも自治体レベルでの対応を検証している。

その視点からすると、被災地自治体(この場合は、避難区域を多くもつ自治体)には、大別すると、二つの選択肢がある。

・帰還
・移転

当然、戦略的な意味でも、最初から「移転」を前提とすることは少ないと考えられるが、それでも、常にこの二つは選択肢として想定しなければならない。

しかしとても厄介なのは、帰還を望むと、「安全神話」に自分たちが便乗しなければならないときがありうるということと、逆に、移転を望むと、本当にその土地が核処分場となるなど、半永久的に帰還できない場所になってしまうということである。

すさまじいジレンマである。

***

もう一点、本書が独特な形で展開しているのが、未災自治体ではあるとしても、今後は、原発近隣区域として、原発とのかかわり、そして、事故への対応などをシビアに進めてゆかねばならないとしている。

その圏域は、およそ50キロ圏内を想定すべきだとする。

言い換えれば、50キロ圏内の自治体はみな、この原発との利害関係者とならざるをえない、ということである。少なくとも事故が起こったときには、被災地となりうるということである。

それゆえ、当然のことながら、原発を新たにある自治体に建造しようとするときも、その自治体のみならず、近隣自治体にも相応のリスク受忍を強いることになるということ、あらためてはっきりとさせている。

いくつか具体的な提案も行われているが、なかでも、以下の二点が本書独自のものと思われる。

・近隣自治体は緊急避難時を想定して、核シェルターをもつべきだ

・地方自治体が推進か反対かといういずれかの立場をとらないで中立に立ち、推進・反対両面の専門家に安全対策を議論、検討させる、行司の役割を果たすべきだ

***

最後に「おわりに」の冒頭の文章を引用しておこう。

「原子炉は裸である。、本当は裸なのにもかかわらず、多重防護の服を何枚も着て安全な王様である、と「大人」は安全神話を流布させた。裸だと指摘した「子供じみた」研究者は、冷や飯を食わされた。」(67ページ)

ここでは金井は、アンデルセン童話の「裸の王様」をたとえに使っているが、この物語を使うからには、もっともこの話の大事なところをおさえなければならない。

第一に、国民もまた、この「見えない服」が見えると思い込んだ。

第二に、この後もまた、王様は、国民全員が「裸だ」と気付いたあとも(もちろん自分もそのことに気付いた)、今まで以上にふんぞりかえって、パレードを続kた。

すなわち、大事なのは「裸だ」と指摘することではない。それが幻想であったと気付いたあとも、国民は結局は王様がパレードを続ければ、「裸」だろうと何だろうと、王様に従う可能性があるということである。

やや乱暴に言えば、「裸だ」と指摘するのみならず、「裸である王様」そのものの存在根拠が問われねばならないのである。

ちなみにアンデルセンは、かの地、コペンハーゲンで少し年下の(後に実存主義の祖としてたてまつられる哲学者)キルケゴールと同じ文学サークルにいたことがある。

アンデルセンはこの哲学者に対して、作品を通じてその虚飾ぶりを非難するが、それから約200年近くたった今、アンデルセンもキルケゴールも、それぞれ「偉人」の一人として、多くの人から支持されている。



原発と自治体――「核害」とどう向き合うか (岩波ブックレット)/岩波書店
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堀田善衛上海日記 滬上天下一九四五 集英社 2008.11

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読んだ本
堀田善衛上海日記 滬上天下一九四五 
紅野謙介 編
集英社 
2008.11

ひとこと感想
後に「審判」という作品においては原爆投下側の葛藤を描いた堀田であるが、第二次世界大戦が終わったことは上海で知り、それについては日記に繰り返し書かれている一方で、原爆のことについては1年以上ものあいだ、何らふれていない。

***

堀田の代表作「審判」については、以下の記事を参照

原爆投下パイロットを通じてさまざまな問いを投げかける小説、審判(堀田善衛)を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11951724904.html

***

1945年3月末、27歳の堀田は、国際文化振興会(外務省が設置した文化工作のための機関)上海資料室に赴任が決まり、上海に行き、1947年1月、引揚船で帰国する。本書の「日記」とはこの間に書かれたもので、2008年、神奈川近代文学館の「堀田善衛展」にて初めて
3冊のノートが公開され、本書が刊行となった。

「9月の末以前の段階で、(中略)原子爆弾で日本人はみな滅びると……、そういうデマが、まことしやかに飛びましてね。」(403ページ)

上記の言葉は、1976年10月に武田泰淳の追悼集を「海」誌が出したときの、開高健との対談の一部である。

そう、堀田にとっては、原爆投下は、上海にいたために、かなり時間的にも、意識的にも、遠い話であったようである。

***

この日記は1945年8月6日からはじまっている。たまたま、広島に原爆が落とされた日から、この日記ははじまっている。

しかも堀田は「ぼんやりとしている」(12ページ)。さらに言えば、のちに結婚することになる「N](れい)と武田泰淳と三人で朝ごはんに饅頭を食べたといったような記述ではじまる。

夜には会合があり、そこでの印象として「日本の革新勢力と中国の革新勢力が結びつかぬかぎり東西の事態変更はない」(14ページ)といったような話があったようである。

そのあとは、飛んで、8月11日の日づけ。ここでもやはり、朝から武田泰淳のところを出てから小餅を食べている。

「9日の晩あたりから外電が報じている国内の和平気運について」(16ページ)「将来のむずかしさを痛感し」ている。

そのあと報道関係の知人と出会うと、「日本が降伏した」という噂を耳にする。

さらに別の人が中華日報の「和平号外」というものを配っており、受けとって読む。

「10日夜。東京のラジオ放送によれば、日本の天皇は世界の平和を切に欲している」(18ページ)という内容が書かれていたという。

このソースは、「東京ラジオの英文短波とモスクワ電台の放送によるものらしかった」(19ページ)

この時点ではまだ、こうした報道の真偽が定まっていない。しかし、周りの雰囲気はすでに、戦争は終わったかのようである。

そうしたなかで武田泰淳は次のような感想をもらした。

「日本民族は消滅するかもしれぬ、そしてもしもじぶんがシナにいて生き残ることがあったら、かつて東方に国ありき、ということを中国人に語り聞かせ、自分らがこれを語り伝えねばならぬ」(23-24ページ)

これに対して堀田は、次のように述べた。

「今日この時の中国人のうつりかわりというものを、人の心の内面の問題として、単に政策的なことではなくて、何とかして、政治論ではなく人の心にしみ入るような具合にして内地の人に知らせねばならぬ、それをやるのは、僕ら文学に携わる仕事をする人で上海にいるものの大切な仕事だ」(24ページ)

翌日、8月12日にも、あちこちと堀田は出かけ、情報収集を行うものの、決定的な事柄は出てこない。

そして8月13日。ここでは、「ポツダム宣言受理の折衝進行中」(28ページ)という外電をみる。

……このあと、日付は飛んで、10月13日となる。

「何か書く気にならなかった。結局事が多すぎ、また面倒くさかった」(31ページ)と言い訳を記している。

「現在僕が、生きるためにねがうことは、自分を破ることだ。自分を破りたい。無方針、でたらめ、むちゃくちゃをやりたい。」(32ページ)

ニヒリズム的な心境とでも言うのだろうか、堀田はかなり、精神的に参っている。

が、まだ「原爆」というものへの認識がない。つまり、東京で空襲を受けたあとに上海に行った堀田としては、日本側の軍隊が劣勢となってゆくさまをもとにして、戦争の終わりを予感していたのであって、決して「原爆」によって決定的になった、という認識はないのである。

この時期において、「日本が滅ぶ」といったようなことを語る一方で、原爆投下の話がないのは、何やら妙な感じであるが、こうした違いはむしろ、当時の上海の雰囲気を伝えているとも言えるだろう。

それにしても掘田はどの時点で原爆のことを知ったのだろうか。

1年後の1946年8月6日、9日の日記にも特に記されていなかった。




堀田善衛上海日記 滬上天下一九四五/集英社
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エンジニアリングとテクノロジー: デザインと文化技術

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ちょっと見えにくいですが、暗がりにネコちゃん発見。



カルチュラル・テクノロジー

なかなか「答え」が見いだせない。デザインとは、何か、とい問い。特に、哲学という領域からデザインをとらえようとすると、無性に、遠さばかりを感じてしまうのは、一体なぜだろうか。

かつて、一つのキーワードが提起された。山本哲士、という、私の恩師が企業デザイナーたちを前にして、この言葉を使ったのが、もう、20年以上も前である。この言葉の意味を、当時の冊子から引用してみる。

「文化技術の定義: 個人の夢想が、構造化された構造に対して自己実現をなしていくために、構造化する構造を開発・創造していくこと」(瀧本往人「21世紀へむけた文化技術――デザイナー、研究者へのアンケート」『Design Tokyoesuque 文化技術としてのデザイン 04』Tokyo Design Network, 1994年1月、4ページ。以下、引用は同)

「文化技術」については、「構造化された構造」と「構造化する構造」というのが分かりにくいと思うが、「構造化された構造」(英語ではstructured structure)というのは言ってみれば、制度や秩序や常識、規則など、人間が生み出したものが固定化(=正当化)されたものを指す。他方「構造化する構造」(structuring structure)とは、同じ人間が生み出したものでも、固定化(=正当化)を崩したり、新たな構造を生みだしたりする潜勢力を指す。いずれもフランスの社会学者、ピエール・ブルデューの用語である。

また、同時に「デザイン」についても「文化技術」と重ねて定義づけられている。

「デザインとは、モノとユーザーとの間の文化領有における文化技術開発である。」

ここにも「文化領有」という分かりにくい用語が含まれているが、これは、フランスの歴史学者ロジェ・シャルチエの用語で(元は英語で言うappropriation)、「所有」や「占有」のように、既成事実化してしまうのではなく、ある領域に足を踏み入れつつも、常にその領域を更新したり、他者によって更新されることを可能とする概念空間のことである。

そしてこの「文化技術」は、当時、Cultural Technologyと英語化されていた。そのうえでテレンス・コンラン、ビル・モグリッジ、ほか、海外のデザイナーや研究者に、この概念を使ってある問いかけを行った。

Q1 ヨーロッパにおける文化技術とはどういうものであったのか

A1 「ヨーロッパでは技術は文化的なものであるという前提をもっていることがわかりました。デザイナーは文化技術概念を、ある種、直観的にそのまま肯定的に受けとり、クリエイティブに回答しているのにたいして、研究者の方は、文化と技術があえて結びついている「概念」そのものの意味を分析していました。そして、いずれにも共通しているのは、「ヨーロッパの文化技術」というくくり方ではなく、各国の文化技術、各々の地域の伝統的な文化技術という、地域や個別性ととても強調している点です。これは、文化技術が、包括的なコンセプトであると同時に、決して一元化できない各々の固有性を表現しているものだということです。」

Q2 現代のインダストリアル・デザインや産業文明は、文化技術を生かしえているかどうか。あるいは、現代社会のなかで、文化技術を生かしえているものは何か

A2 「2つの意見に分かれました。インダストリアルなものには、まったく文化技術は活かされていないという意見と、いくつかの製品(とくに日本の商品や情報・通信技術)においては有効に使われていたという意見です。これは、インダストリアル商品の区別の仕方、概念規定の幅の違いによるところがありますが、基本的には、文化技術が生かされたモノは、現存するインダストリアル商品つまり大量生産物や二流芸術品という枠を突き破った、超インダストリアルなモノである、という見方をとることができると思います。」

Q3 これからの社会にとって文化技術はどのような潜在的可能性をもっているか

A3 「多様な意見が現れており、独自のデザイン観が述べられている」(詳細は省略)

さらにまとめとして、次のように書いている。

「近代日本では技術は科学的なものであり、科学技術だけが技術であるかのような認識が定着していましたが、技術と文化が不可分なものであるという前提がヨーロッパには根付いているという点で、私たちは彼らの伝統をもっと根本から学ばねばならないと思います。しかしその一方で、機械やモノさらには自然に対する意識は、日本とヨーロッパでは大きく異なり、ヨーロッパではあくまでも主体の客体にたいする意識的な働きかけという考えからテクノロジーがとらえられているのにたいして、日本では、人とモノ、主体と客体の両者の相互関係からテクノロジーが考えられています。これは、文化技術概念が、伝統的な諸々の文化技術と、超近代的なハイパーな文化技術の双方を示すものであり、逆に科学技術意識、人間中心主義、近代産業主義の枠のなかでは、ネガティブなもの、郷愁的なものとして位置づけられる可能性がある、ということです。」

今読むと何を言っているのか、自分が恥ずかしくなるところもあるが、とにもかくにも、「文化技術」という言葉は、当時(1990年代前半)の企業デザイナーや研究者たちにとって、これからの「デザイン」を議論するうえで、一定程度以上の意味を持っていたのである。

なお、上記で述べた「文化技術」とは英語では「Cultural Technology」としていた。なぜ、テクノロジーという語彙を選んだのかというと、そこには、フーコーの「自己のテクノロジー論」があったことが大きい。自己の陶冶、自己への配慮、自己の鍛練、つまり「テクネー」の体系としてフーコーは、テクノロジーという語彙を使ったのであり、この「カルチュラル・テクノロジー」もまた、個々の「テクネー」というよりもその全体、もしくは、その「ロジック」に焦点があてられていたと言える。

カルチュラル・エンジニアリング

一方、長澤忠徳(ら)は「カルチュラル・エンジニアリング」という概念を提起している(長澤忠徳、今泉洋、栗芝正臣、八重樫文「カルチュラル・エンジニアリング研究〈I〉」平成12-13年度 武蔵野美術大学・共同研究 研究報告書)。

これまでのデザインに対する反省として、「デザインはモノを作るということだけを考えて、世の中を見てきただけだったのではないか」(3ページ)と述べて,それが「何のため」かと言えば、「使おうとする人が志向しているもの、おそらくそこに実現しようとする「文化」」(4ページ)とする。

「基本的にデザインというものはタンジブルな物的存在といかに成立させるかということにいろんな知を導入して、それによって現在の社会を実現することに加担してきた。けれど、実際にモノから成り立った社会が情報化すればするほど、そこにモノではない関係とか、ムードとか、イメージとか、意味合いだとかいうものを構築しなければいけなくなってきている。(5ページ)

ちなみに「文化」という言葉に対しては「人の習性や生活様式」「新しい価値観の集合体」といった説明を施している。また「言われた通りやったから、なぞったからといって文化になりえるようなものではない。ある一定の醸成期間のようなものが必要」(8ページ)であるとする。こうした文化の「実現」のための、デザインの上位概念として、カルチュラル・エンジニアリングという概念を提起しているのである。

すなわち、前述したカルチュラル・テクノロジーとは異なり「エンジニアリング」という語彙を用いている。長澤は次のように「エンジニアリング」を選んだ理由を述べている。

「身体に依拠した「技術=スキル」の意味を重視したからであり、別の言い方をすれば、ものごとの実現のために駆使する「技術=スキル」の主体である身体性を尊重しようとした」(47ページ)

他方、「テクノロジーは、「技」(テクネ)」を記号化して「論理(ロジック)」として記述し、「論理」を解すれば、その「技」は、移植可能になるという考えに立脚している。また、今日的には科学技術的な意味合いを強めており、これに対して、エンジニアリングは、ある目的を機構的に、あるいは構造的に実現するための行為という汎用性の高い意味として理解される。」(47ページ)

さらには「デザイン」とは、「デザイニング」によって「文化になる可能性を秘めたものごとを世界に装置化してみる」(47ページ)行為を行うことである、と言うように、通常のデザインの意味を二つに分け、デザイニングの上位概念にデザインを置いている。

結論を書いてしまえば、こうである。「エンジニアリング」にも「テクノロジー」にも、語彙としては、いずれにも難点がある。確かに「テクノロジー」には「ロジック」に偏りがあり、身体性よりも観念性が高いことは否めない。しかし一方で「エンジニアリング」には「ソーシャル・エンジニアリング」がそうであるように「操作」「誘導」の意味合いが強くでるときがある。たとえば、「インテリジェンス」が「知性」の意味だけではなく「諜報」の意味があるように、「エンジニアリング」にも社会的に歓迎されていない要素を含んでいる。

また「エンジニアリング」には、元々「デザイニング」と同じような意味合いが含まれている。「エンジン」がそもそも「何らかの操作により動作を発生させる」という原義をおち、その後、そうした動作を発生させる装置や機関の意味に移っていったように、現在では「エンジニアリング」もやや硬直したイメージがあるのではないだろうか。

 カルチュラル・テクノロジー開発 = カルチュラル・エンジニアリング

なお、カルチュラル・エンジニアリングは、「人間工学」の延長線上のように論じられる場合が多い。

教育という現場でもしばしば行われていることという指摘もある。しかもこのやり方を「構造化」したものが「宗教」であるとも述べらている。

一方、カルチュラル・テクノロジーはK-POP業界では、歌手やアーティストを海外で売り出すための一つの「装置」理論として利用されている。



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あちこちで見つけた不思議なもの(ささやかな)

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本日は、あちこちで見つけた不思議なもの(ささやかなを、画像を中心にお届けしましょう。


まずは、まったくドイツのお店がない「ジャーマン通り」の、クリスマスのためのまち灯り。



きっと坐ることは禁じられている、某美大に展示されている椅子。


遠方でけっこうな煙が発生しており、火事ではないかと思いつつも、ニュースで確認できないというのは、とても不安である。一体何の煙?


葬儀屋さんのはずなのに、なぜか電飾ピカピカとけばけばしいのも、妙に不安である。



「おばぁ」の店なのに、なぜか人気のようで、外を歩いていても、店内の笑い声が響いてくる。



一般的にトイレ(男子用)に用いられそうなサインを、こうした形で「関係者以外立ち入り禁止」に使っても、今一つ効果が薄れるように思われる。



居宅の2階に、鳥居があっても、この家の人意外には入れない。ただ、壊すことができずに「敷地内」に移設してのであろうか。



予想に反してあっという間に使い終わった「プレミアム商品券」。もっと申し込んでおけばよかったと後悔する。


せっかく海外帰りの方からお土産をいただいたのだが、防腐剤がはいっていなかったのか、保存料が少ないのか、かびていて食べられなかったのが、とても残念。


ネコに小判ならぬ、ネコに段ボール。どんなに小さくても、意地でも一度は入ろうとする。一体何のために?


トマソン大図鑑〈無の巻〉 (ちくま文庫)/筑摩書房
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テクノロジーと現代政治 巨大化する「技術」をどこまで制御できるか 江上能義

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読んだ本
テクノロジーと現代政治 巨大化する「技術」をどこまで制御できるか 
江上能義
学陽書房
1989.04

ひとこと感想

ダール、エリュール、ウィナーの論を整理しつつ、SDI、第三世界の開発、国内の技術立国論などが論じられる、巨大化するテクノロジーの政治論。反原発運動などについても言及している。フーコーのバイオポリティクス論が不在なのが残念である。

***

第1章はまず、R・ダールの著作が紹介されている。

Robert Dahl, Controling Nuclear Weapons, 1985.

テクノロジーとデモクラシーの関係を、核問題から解明しようとしている。そのなかの大きな結論は、核問題がこれまでの民主主義の手法や考え方の枠組みのなかにうまく収まらないということである。

たとえば米大統領は、核兵器使用の決定権を有している。

これは。、単に、一つの兵器を発射する権限ではない。

冷戦期においては、それを引き金に、核戦争が開始され、さらには、「世界の終焉」をもたらしうる事態に至るかどうかを決める「力」を持っているということである。

これは政治学的には、きわめて異例な「権力」のありようであろうし、この視点をフーコーは「バイオポリティクス」という見地からこのダールより10年ほど前に(1976年頃に)すでに論じている。

「1945年に広島原爆投下の決定がなされたのも同様であった。この問題には、世論は存在せず、民主主義の政治過程も関与できなかったのである。」(19ページ)

まず、こうしたことが許されてよいのか、という問題がある。そして、もし委ねるとしても、はたして、その人物に対する倫理的な能力に私たちは信頼を置くことができるのか、ということも、まったく問いに付されていない。

いわば、核兵器とは、政治学的にみるならば、極めて異例の存在であり、言わば、なし崩し的に、戦後世界に大きな力を及ぼし続けているのである。

そしておそらく、そのままこの問いは核兵器のみならず、原子力政策全般にも適応されうる。

すなわち、原発においてもこの問題構成の延長線上にあると考えるのが、妥当である。

また、さらに言えば、国内の自治体どうしの問題として、原発を受け入れた自治体と、原発の電力を利用している都市圏との、アンバランスな関係性もまた、上記と同様に、「原子力」によって生じる「影響=効果」が、これまでの地方行政や自治体の運営の基本枠を超えてしまっているのである。

続いて、L・ウィナーの「鯨と原子炉」について言及される。これはすでに記事にしているので省略。
 
 鯨と原子炉 技術の限界を求めて(L・ウィナー)
 http://ameblo.jp/ohjing/entry-11741190496.html

続いて第2章では、J・エリュールが論じられる。上記のダールやウィナーについては国内でもなじみがあるほうであるが、エリュールの技術論はあまり知られていない。

Jacques Ellul, La Technique ou l'enjeu du siècle、1954.

ここに着目するのが、本書の大きな特徴と言えるだろう(ただしフランス語ではなく英訳からの検討)。

エリュールの「技術」(technique)は、広い意味をもつ、とまとめている。

・機械的技術
・知的技術
・経済技術
・組織技術
・人間技術

おのあと、もう少し細かく、「伝統的な分野以外に、現代の国家が応用するさまざまな技術」(58ページ)として、以下を挙げている。

・すべての種類の産業・商業技術
・保険・銀行技術
・組織技術
・心理技術
・芸術技術
・科学技術
・計画技術
・生物学的技術
・社会学的技術

しかし重要なのはこうした分類項目ではない。さまざまな技術が社会にくまなくあらわれていった(=技術社会)その結果として、「テクノロジー自体が一つのシステムを構成」(60-61ページ)していることである。

いずれにせよ、テクノロジーは科学技術に限定されず、そうした社会をおおいつくしている技術の総体を指しており、これを英訳では「テクノロジカル・システム」と表現している。

正直、こうした展望は2105年現在、すでに現実のものとなっている。

エリュールがこうした論を展開した時代は、まだ、コンピュータがようやく実用化された頃であり、今のように、各個人がスマホを持ち歩いている時代ではない。

にもかかわらず指摘されている点はむしろ、今の時代状況を見事に言い当てていると言える。

ただし、大きく当時の技術論がすべてそうであったように、現在の高度情報化社会もまた、すでに、「核兵器」と同様に、既存の体制による制御が不可能になっていると同時に、いわゆる「管理社会」論で問題されたような「監視社会」の全体主義ではなく、それを突きぬけて、もっと多くのセンサーによってデータがとられるような社会に向かっている。

ここでは、テクノロジーとそうではないものが、分離されている。技術化されないものとは、以下のようなものである。

・歓楽
・愛
・苦悩
・喜び

おそらく人工知能は笑うだろうし、愛するだろうし、苦しむだろうし、喜ぶであろうから、当時のこうしたものへのテクノロジーの圧力というのは、見当違いの論議となっていると言える。

しかし、次の指摘はきわめて大きな意味をもつ。

「テクノロジーは中立であると主張されてきたが、もうその段階は終わった。テクノロジーの力と自律によっていまや、テクノロジー自体が倫理の判事となりつつある。」(72ページ)

第3章は、L・ウィナーであるが、ここでは以下の書物が対象となっている。

Langdon Winner, Autonomous Tchnology: Technics-out-of-Control as a Theme in Political Thought, 1977.

第4章以降は、各論もしくは国内ならびに当時問題とされた技術論的イシュ―が検討されている。

一方で宇宙開発(SDI構想)、他方で第三世界の開発政治とテクノロジーの問題が語られている。たとえば、第三世界論においては、鈴木佑司の論考「技術移転と技術依存」がとりあげられている。

そのあと「科学技術立国」論であるが、ここでは吉岡斉や中山茂の論に依拠しつつ、原発建設に対する地元住民の不安意識は、基本的に、「無知のせい」とする為政者側(推進側)の論理に対して、中山の「知的公害」という言葉を引用する。

「だが住民はそれまで、原子力の知識がなくても普通の生活を営んでこれたのである。」(175ページ)

それは確かにそうであるが、導入するからには、相応の知識や理解がなければならないのは、当然ではないだろうか。

むしろ、ここで、「対立」と形成することには、あまり意味がなく、むしろ、やるからには、本当に安全でありうるような体制なり技術なりを理解したうえで導入するべきであったのではないだろうか。そういったことでしか原発の安全性は担保されなかった、ということに事故のあと、私たちは気付いた。

こういう言い方は、酷であることは十分承知のうえで、反省として書くが、反対運動だけでは、すでに存在し稼働している原発を安全にすることは困難であるばかりか、むしろ、安全をめぐる実施側とのしっかりとした議論を拒んできたようにも思う。

強いて挙げれば、高木仁三郎らの運動や対応は一定程度以上の意味があったが、広瀬隆のような「警鐘」は、かえって「不安」だけを与えてしまったのではなかったのかと懸念する(「警鐘」も大事であることは言うまでもないが)。


テクノロジーと現代政治―巨大化する「技術」をどこまで制御できるか/学陽書房
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原子時代の芸術 花田清輝 全集第5巻 講談社 1977.12

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ひなたぼっこをするネコちゃん、発見


読んだ論考
原子時代の芸術 
花田清輝 
全集第5巻 
講談社 
1977.12

初出

世界文化年鑑・1955 平凡社 1955.03
原題
原子力問題に対決する20世紀芸術

ひとこと感想

「原爆文学」に対する強烈な批判論文。体験を客観的に描いているわけではない以上、そこには作品の質が問われるわけだが、なかなか優れた作品はない。といったような論評である。

***

「わたしは、原爆の体験者であるわれわれの芸術家が、原子力問題に対決するばあい、まずその原爆の被害の精密な記録をつくる仕事からはじめるということは、きわめて自然でもあり、必要なことでもあると考える。」(266ページ)

花田はこうした前提をもったうえで、以下の2つの作品を比較する。

L'Age Atomique
Bernard Lorjou 
1950

原爆の図
丸木位里・俊
1950.02 (第一部・幽霊)

上記の二つの作品の違い。「極端な相違におどろき」(265ページ)とある。そうした違いの根源には「」であることがあり、かつ、以下のように説明する。

原爆の図
われわれが、原爆や水爆の直接の被害者
・その惨劇の忠実なドキュメントを目ざしている
・運動体験のないわれわれの芸術家が、前途に絶望している
・絵巻物や草紙類の影響下にある
・一瞬にして変貌してしまった人間の悲惨な姿を克明に物語る
・記録芸術に特有の事実のもつ迫力

原子時代
・そういう体験とはまったく無縁
・安全地帯で高みの見物をきめこんでいるにすぎない傍観者の手になる至極観念的な文明批評
・今日の平和運動を、みずからの抵抗運動の延長線上においてとれあえ、原爆や水爆の禁止に確信をもっている
・ゴヤの遺産をうけついでいる

だが、「原爆の図」の優れた点を浮き彫りにするのが、この論考の主眼ではない。

「芸術的方法という点からみると、かえって、丸木・赤松のほうが、大部分の文学者よりも、一歩、前進したところに立っているようにおもわれる。同じ記録芸術にはちがいないが、『原爆の図』には、日本独特の記録芸術の方法をつくりだすための模索があり、冒険があるのに反し、たいていの「原爆文学」は、依然として、古めかしい私小説的方法によりかかっている。」(266-267ページ)

そして、カミュの「ペスト」と大田洋子の「屍の街」が対比されている。

そのうえで、もう一度、原爆の図と原子時代が対比される。今度は少し辛辣になっている。

「前者(=原子時代)がアヴァンギャルド芸術を通過しているのに反し、後者(=原爆の図)が初期のシュール・リアリズムの段階に立ちどまったまま、そこから一歩も前進していないためではないだろうか」(268ページ)

そう、私もこのブログにおいて、「言説」として「原子力」に関する作品の感想を書いているが、正直、こういったレヴューは、作品の著者にとっては、あまり気持ちのよいものではないと思う。

花田の文章を読んでいると、確かに、そう思う。

だが、これは致し方のないことである。何を見つめるかの問題だからである。

大田洋子や原民喜の作品は、善し悪し、好き嫌いは別として、歴史的に、重要な作品であることは、疑いがない。

それを「文学」や「芸術」そして、「原子力言説」の系譜からみたかぎりにおいて、その意味がまったく異なってくるという、だけのことである。

ここは誤解なきよう。

ただしここまで言う必要がないと思うところもある。

「事実の赤裸々な報告のようにみえるにせよ、つねにその事実は、作者の道徳的価値判断によって歪められており、厳密な意味において記録文学と称しがたいことはいうまでもない」(271ページ)

小難しい言い方をしているが、要するに、「文学」を家業にしていたり「作家」を名乗っている人間が、この程度の表現力で「作品」というのは、やめたらどうか、ということである。

「作家」としての力量の有無ではなく、ここでは、「当事者」「被害者」「目撃者」としての、ある種の「使命」のようなものが、彼(女)らをせきたてた、ということではないだろうか。

花田が論評する「前提」というのは、「平和」な世界である。だが、世界は待ってくれない。

ときに、戦争、ときに、事故、ときに、災害、さまざまな不確定要因が押し寄せるなかで、何かを残さなければならないと必死にもがいている人たちがいる。

その人たちの「力量」を「論評」することに、はたして、何か意味があるのか。

もしあるとすれば、こうである。

彼(女)らが、はたして、そうした「現場」にいて、どこまで「現場」の実態と向き合ったのか、ということである。

だが、本当に酷な話だ。

被害者が自らの被害を語ることにおいては、基本的には、こうした要請は、不要である。

だが少なくとも、表現されたものである以上、こうつぃた形で、論評される宿命を背負っている。

したがって、阿川弘之の「魔の遺産」に対する以下のような言い方も、決して作者の「思い」を踏みにじりたいわけではない、と思われる。

「阿川とは反対に、わたしなどは、そういうアメリカの調査機関に治療を期待する日本人の非常識と奴隷根性のほうに反発を感じないわけにはいかない」(272ページ)

そういうおまえは何様のつもりだ、とも言いたくなるが、これはこれで、良いと思う。

このあと、映画作品の評論に移り、放射能X、原子怪獣現る、ゴジラ、をとりあげている。

芸術的には「放射能X]がもっとも成功しているとし、他方で、「原子怪獣現る」は米国の楽観主義がにじみ出ているだけでつまらないが、「ゴジラ」はそれなりに「ペシミスティック」を描いているとする。



花田清輝全集〈第5巻〉 (1977年)/講談社
¥3,888
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女の哲学 宇波彰 監修 女性哲学研究会 PHP 2014.11

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今日もクロネコちゃんを発見(昨日とは別の場所)。画像は分かりにくい。



読んだ本

女の哲学 男とはなにか? 人生とはなにか?
宇波彰 監修 
女性哲学研究会 
PHP 
2014.11

ひとこと感想
スタール夫人、ローザ・ルクセンブルク、ハンナ・アーレント、フリーダ・カーロ、ボーヴォワール、シモーヌ・ヴェイユ、アイリス・マードック。7人の女性がとりあげられている。主に生涯について詳しく述べられる。後半はこの7人の架空対談という構成。とても良い企画だが、内容的にはもう一息、がんばってほしかった。

***

サブタイトルにある「男とはなにか?」「人生とはなにか?」については、10ページにある「七人の哲女+ひとりの生涯からわかる哲学」とつきあわせてみると、っ次のように言える。

スタール夫人の問い

・男とはなにか? 
・地位とはなにか?
・国家とはなにか?

ボーヴォワールの問い

・彼女の人生が哲学

アイリス・マードックの問い
・生き方とはなにか?

シモーヌ・ヴェイユの問い
・労働とはなにか?
・貧困とはなにか?

ハンナ・アーレントの問い
・ユダヤとはなにか?

ローザ・ルクセンブルクの問い
・なぜ自分は入獄させられたのか?

フリーダ・カーロの問い
・彼女の絵が哲学

なお、題名の「+ひとり」というのは、只野真葛が含まれている。

只野真葛の問い
・女とは?
・結婚とは?

つまり、スタール夫人とボーヴォワール、そして只野の問いがサブタイトルになっているのである。

各人が、16~22ページのボリュームでで紹介されている。以下の項目を含んでいる。

・扉(1ページ) (引用)
・相関図(2ページ)

・考え方の解*
・生涯(もっとも分量が多い)
 ・関連人物紹介
 ・キーワード
・影響を受けた哲学者(2ページ
 
・作品紹介
 
・エピソード
・お勧めの作品(1ページ)
・年譜(1ページ)
・コラム(1ページ)

考え方の解説
このうち、「考え方の解説」には、各人のめざしたものを「~哲学」と表記している。わずか1ページなのが残念である。

・スタール夫人 愛情哲学
・ローザ・ルクセンブルク 経済哲学

・ハンナ・アーレント 生命哲学
・フリーダ・カーロ 生命哲学
・ボーヴォワール 愛情哲学
・シモーヌ・ヴェイユ 生命哲学
・アイリス・マードック
 愛情哲学

これは一体どういう意味であろうか「愛情哲学」は単に、男女や恋愛に焦点をあてたということであり、「生命哲学」は、自分の生死に焦点をあてたということである。

宇波彰の「はじめに……」には「哲学は、高級な常識のことです」(2ページ)とある。「高級」とはどういう意味なのかよく分からない。「初級の常識」「中級の常識」「上級の常識」というのなら、少しは分かるが、常識に「高級」や「低級」があるとは知らなかった。

本書で登場する女性は、主に、上記に挙げた7人であるが、それ以外にも

只野真葛がとりあげられているほか、「影響を受けた哲学者」のところには、以下の人物がとりあげられている。

・スタール夫人 シラー
・ローザ・ルクセンブルク マルクス
・ハンナ・アーレント ハイデガー
・フリーダ・カーロ トロツキー
・ボーヴォワール ライプニッツ
・シモーヌ・ヴェイユ デカルト
・アイリス・マードック サルトル

7人の生まれた年をならべてみる。

1766 スタール夫人 (-1817)
1871 ローザ・ルクセンブルク (-1919)
1906 ハンナ・アーレント (-1975)
1907 フリーダ・カーロ(-1954)
1908 ボーヴォワール(-1986)
1909 シモーヌ・ヴェイユ(-1943)
1919 アイリス・マードック(-1999)

つまり、
ハンナ・アーレント、フリーダ・カーロ、ボーヴォワール、シモーヌ・ヴェイユは同時代人である。

ほか、「資料」には、以下の4人の女性哲学者がクレジットされている。

メラニー・クライン (1882-1960)
スーザン・ソンタグ (1933-2004
ガヤトリ・スピヴァク  (1942- )
ジュディス・バトラー (1956-  )

宇波さんはどうしてここに、ジュリア・クリステヴァを入れなかったのだろう。また、アンスコムもせめて「資料」の方には入れておいてほしかった。

内容としても、もっともページを割いているのが「生涯」であり、しかもその内容の大半はWikipediaに依拠しているのため、それほど興味のわくものが多くはなかったのが残念である。


女の哲学/PHP研究所
¥1,512
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吉本隆明の思考モチーフ

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カモが、川を泳いでいた。それほどきれいではないかもしれないが、もぐったりもしていた。


吉本隆明はなぜ、「共同幻想」論を提示するに至ったのか、そのモチーフとでもいうべきものについて、1950~60年代に書かれたものを参照しつつ、みていくことにする。

吉本には、「日本の社会構造の総体にたいするわたし自身のヴィジョンを、はっきりさせたいという欲求」(1958年「転向論」p.9)が、たえずつきまとっていた。

「現在、わたしたちは、おおきく膨らんだ国家独占社会で、くらげのように浮きつ沈みつしながら生きている。足はアスファルトや土をふみしめているが、思想はアトム化してめまぐるしく社会現象を追うため、人間はついに社会現象そのもののようにしか存在できない。この新しい社会体験はわたしたちの周囲が、戦前よりもはるかに膨大にふくれあがって視えるところからきている。そこでは、鋭い社会的な不安定感が、形にそう影のように飽和感とむすびついている。」(1960年「戦後世代の政治思想」p.53)

「おそらく、わたしたち戦争世代は、国家的な制約、民族的な幻想などを、もっとも、はげしく打ち破られた世代にぞくする。……こういう破産を根づよく解明しようとするとき、どうしても戦争責任や天皇制体験の解明にむかわざるをえなかった。いいかえれば、もっとも特殊的な、民族的な体験の解明に固執せざるをえなかったのである。……わたしたちが戦争体験や天皇体験に固執するとき、それは、過ぎさった時代の一区劃に固執しているのではなく、民族的な特殊的な社会様式や思想様式を、もっとも密度のおおきい場所で解明しようとするものにほかならず、その原動力をなしているものは、民族的な特殊的な制約に思考を限定させようとするあらゆる傾向にたいする徹底的な否定にほかならないといえる。」(「戦後世代の政治思想」pp.72-73)

1924年(大正13年)に東京、月島で生まれた彼にとって、自らの思考の出発点となっているのは、「敗戦」のショックである。それまで純粋に「天皇万歳!」「ニッポン万歳!」と叫んでいた彼にとって、「敗戦」は、単に日本社会の敗退を意味したのではなく、自らが生活している基盤に対する世界からの敗退を意味したのだった。今まで信じて疑わなかったものが根本から否定される体験、これこそ現在に至ってなお、彼の心から離れがたい自らの思考の立脚点である。

「思想も文学も創造的でありえなくしているわたしたちの社会にたいする血肉化された認識は、すべての思考の拠点である。……文学思想や政治思想が、思想として社会の土壌に根づかず、また社会の総体にたいするヴィジョンをもうみだしえないで、ただ、現実的に政治情勢に反応するだけにとどまるとき、ほんとうの意味で思想の危機ははじまっているのだ。戦争中、わたしたちは、生産力と社会の構成と政治支配の密接なつながりを、いきいきととらえることができなかった思想家や文学者たちが、民族の自衛や日本人の独立をスローガンにして侵略戦争の提灯をもったことを知っている。」(「戦後世代の政治思想」p.56)

この「世界からの敗退」から立ち上がるにはどうしたらよいのか?――この問いの答えを、彼は作家や知識人らに求め、その結果第一に「救い」として大きく現われたのは、いわゆる「マルクス主義」(作家・知識人)であり組合運動であった。マルクス主義は、この戦争を、帝国主義の拡張をもくろむ欧米諸国の軍事的な圧力であると定義づけるとともに、一国内における階級闘争、即ち労働者が抑圧され搾取されている現実から自らを解放することを至上目的としたが、吉本は、この後者の思考に惹かれていたと思われる。「日本」が負けたことよりも、世界全体において自分の立場は被抑圧者であり、自らが幸福になるためには、闘うべき敵は、ブルジョワ資本家であり、資本家国家である、と考えた。大衆が悪いのではない、悪いのは、権力者たちであり、彼等に対する闘争こそ、自らを解放し、自由にさせ、幸福にさせる道である、そう信じた時期があったに違いない。

「すべての文化は、文化については物言わぬ大衆を基盤にして立ち、それらの大衆にたいして責任をもつもので、文化現象のなかに集まってくる文化的な大衆を選択したり組織したりするものではないというのは、わたしが戦争期の文化人の在り方の無惨さを、いわばひとりの知的大衆として眺めたことから得た、もっとも本質的な教訓の一つであり、戦争責任論以来の一貫した立脚点である。」(「戦後思想の価値転換とは何か」pp.144-145)

だが、彼は、困惑した。マルクス主義は皆、現状の克服には、生産様式としての「資本主義」を「共産社会」へと移行することによって達成できると言うのだ。「物質的土台」の発展が自分たちの命運を分ける、今風に言えば、経済力さえついて世界経済のトップに立ちさえすれば、全ての矛盾が解決される、というマルクス主義の考え方に、彼は強く反撥した。というのも、社会が豊かになるということと、自分が豊かになるということ、そして、自分の知人関係が豊かになることの間には大きな違いがある、と彼は実感していたからだ。その意味では、「敗戦」が彼にとってショックだったのではなく、「敗戦」を境にした作家や知識人たちの苦悩を知るにつれ、あれほど「天皇制」や「神国ニッポン」を信じて疑わず、自分の命を犠牲にしてでも日本の勝利を目指すべきだと信じていた自分の意識にショックを受けたのだ。共同体には共同体の思惑がある。そして個人には個人の思惑がある。その両者を一体化して考えていた自分とは一体何だったのか?――彼はそう自問したのであろう。

そこで得られた結論、共同体の思惑と自分の思惑は全く別のものである、とは、言い換えれば、共同体の思惑が、「敗戦」という形をとったとしても、それとは全く別物として個人の思惑は成立していい、ということであった。もっと具体的に言えば、戦争に加担した、もしくはそれまで批判していた人間が転向して戦争を肯定したり、天皇制を肯定したとしても、その人間の個人的な表現の部分(作家であれば作品、学者であれば論文)を否定する必要はない、という考えである。

「思想者としての生命は、俗流政治家たちのように、すべての世界現象をつじつまのあうように解釈するところには存在しない。何ものにもかえがたい現実の情況が、何ものにもかえがたい思想の課題とぶつかるときの、不可避の精神的、現実的な実践の契機を視つめることを生命とする。」(1964年「戦後思想の価値転換とは何か」p.144)

吉本自身が詩や小説を愛していただけに、作家や知識人の戦争の前後における言動は、自らの痛みでもあったに違いない。自らの創造活動の産物が、全て国家を中心とした動向に対する評価で割り切ってよいものなのか? 優れた作品を遺した人物が、犯罪者であった時に、その作品の質は否定されてしまうのか? ミュージシャンが麻薬で捕まった時、その楽曲までもが断罪されてしまうのか? 宗教者が無差別殺人を指揮したとき、それまでの修行の内容までもが非難されるのか? ここには、今なお問題となるテーマが存在している。具体的には、作家や知識人たちの「転向」において、吉本はこの論を展開していった。

「近代日本の転向は、すべて、日本の封建性の劣悪な条件、制約にたいする屈服、妥協としてあらわれたばかりか、日本の封建性の優性遺伝的な因子にたいするシムパッシーや無関心としてもあらわれている。このことは、日本の社会が、自己を疎外した社会科学的な方法では、分析できるにもかかわらず、生活者または、自己投入的な実行者の観点からは、統一された総体を把むことがきわめて難しいことを意味しているとかんがえられる。分析的には近代的な因子と封建的な因子の結合のようにおもわれる社会が、生活者や実行者の観念には、はじめもないおわりもない錯綜した因子の併存となってあらわれる。もちろん、けっして日本に特有なものではないが、すくなくとも、自己疎外した社会のヴィジョンと自己投入した社会のヴィジョンとの隔たりが、日本におけるほどの甚だしさと異質さとをもった社会は、ほかにありえない。日本の近代的な転向は、おそらく、この誤差の甚だしさと異質さが、インテリゲンチャの自己意識にあたえた錯乱にもとづいているのだ」(「転向論」p.11)

吉本はここから二つの戦いを仕掛けてゆくことになる。一つは、そういった創造行為をそのものとして評価するための戦いであり、社会的な思惑とは切り離した、作品そのものの評価をするにはどうしたら良いのか? を問うものである。第二に、社会を豊かにしてゆくための戦いであり、社会が豊かになる方向性を、逆に個人の思惑と切り離して考えてゆくにはどうしたら良いのか? を問うものである。前者は、『言語にとって美とは何か』と『心的現象論』によって代表され、後者は、『共同幻想論』『マスイメージ論』『ハイイメージ論』によって代表される。

「現在、わたしたちが創造すべき価値、あるいは創造せられた価値(文学・芸術・哲学)は、これをイデオロギイや人間学に還元するために存在するのではなく、絶えず現在を止揚するために全存在をあげて接近し、人間史の表現の連続性と、現情況の根源的な課題とが交わる切点を位置づけるために存在するものにほかならない。わたしたちは、還元せずに、いわば、その切点がしめす課題を見出すために、逆にそれに接近しようとする。」(「戦後思想の価値転換とは何か」pp.135-136)

それゆえ、吉本の問題意識に対して、大きな二つの「敵」が立ちはだかることになる。

「日本のインテリゲンチャたちがたどる思考の変換の経路は、典型的に二つあると、かんがえる。第一は、知識を身につけ、論理的な思考法をいくらかでも手に入れてくるにつれて、日本の社会が、理にあわないつまらぬものに視えてくる。そのため、思想の対象として、日本の社会の実体は、まないたにのぼらなくなってくるのである。……日本の社会が理にあわぬつまらぬものとみえるのは、前近代的な封建遺制のためではなく、じつは、高度な近代的な要素と封建的な要素が矛盾したまま複雑に抱合しているからである。この種のインテリゲンチャが、見くびった日本的情況を(例えば天皇制を、家族制度を)、絶対に回避できない形で目の前につきつけられたとき、何がおこるか。かつて離脱したと信じたその理に合わぬ現実が、いわば、本格的な思考の対象として一度も対決されなかったことに気付くのである。このとき生まれる盲点は、理に合わぬ、つまらないものとしてみえた日本的な情況が、それなりに自足したものとして存在するものだという認識によって示される。……第二の典型的な思考過程は、広い意味での近代主義である。日本的モデルニスムスの特徴は、思考自体が、けっして、社会の現実構造と対応させられずに、論理自体のオートマチスムスによって自己完結することである。……思想は、けっして現実社会の構造により、また、時代的な構造の移りかわりによって検証される必要がないばかりか、かえって煩わしいこととされる。これは、一見、思想の抽象化、体系化と似ているが、まったくちがっており、……はじめから現実社会を必要としないのである。」(「転向論」pp.22-25)

近代主義者とは、マルクス主義であれ、非マルクス主義であれ、結局は、日本社会が長年にわたって培ってきた「共同的な思惑=共同幻想」を一刀両断に、悪しきもの、古いもの、克服すべきもの、価値の低いものとみなしてきた。

「日本の近代主義的な思想家たちが、前近代的な社会様式、思想様式とかんがえているものが、高度の近代的な社会様式、思想様式と対立ばかりするのではなく、それは現代の日本の社会様式、思想様式の総体の構造として理解すべきではなかろうか……近代主義的な思想家が封建的な様式、または、伝統的な様式として反近代とかんがえているものは、高度の独占社会のいわば必然的な属性であって、文明開化を単純に西欧近代にむすびつけ、前近代的な、または伝統的な様式を未開化にむすびつけるのは不当である、とおもわれた」(「戦後世代の政治思想」p.71)

マルクス主義者は、共同幻想の問題は、物質的な土台の発展によって解決されると考えた。非マルクス主義者も、実は一緒で、科学的な研究開発が、日本社会の幸福をつくりだすのであり、それが同時に、個人個人の幸福も約束すると考えた。言ってみれば、天皇制はそれほど甘いものではないし、日本社会が作り出してきた共同幻想の強固さをしっかりと見据えなければならないことを吉本は強調する。

「〈国家〉とそれに先行する国家、いいかえれば宗教・法・国家は、その本質の内部では社会の生産の様式の発展史とは関係がないのである。それはそれ自体の発展の様式をもっている幻想の共同性の発展である。また幻想的な疎外の特殊性から一般性への発展であり、わずかにその本質の外部で、社会の経済的な構成と、無数の環によって対応させて考察することができるにすぎない。」(1965年「自立の思想的拠点」pp.246-247)

マルクス主義は、共同幻想の問題を、とるに足らぬものとして片づけ、方や資本家打倒の政治運動を行ない、方や科学技術至上主義として君臨してゆく。対して、吉本の問いはきわめてシンプルである。政治革命も、科学技術の発展も、決して軽視しないが、それと同じだけ重要な個人幻想の問題、対幻想の問題がある、とみなす。そしてそれぞれ別ものとして解決すべく努力せねばならない、というものである。ここから、吉本には、三つの探究の軸があるということができる。既存の共同幻想の解明と未来ビジョン、対幻想の解明、個人幻想の構造の解明と歴史的展開、そして自己の表現を進めること。共同幻想は、まさしくある社会の共有物なのだから、吉本は未来ビジョンも含めて語る。対幻想は、二人の関係の中での問題なのだから、おそらく二人の間で形成する。個人幻想は、自らの表現をつきつめてゆき作品を表出することによって、結果を出す、その違いがある。

この共同幻想の軸に対して、特に指摘しておかねばならないのは、ヘーゲル、マルクス、マルクス主義の思考との関係である。

「地域住民大衆の構造が実体であり、これに対し、政治体制は幻想であり、また、市民社会が実体であり、これにたいし、国家が幻想の共同性であるというのは、いわばマルクスの思想の原基である。」(「戦後思想の価値転換とは何か」p.141.)

吉本は物質的土台、生産様式の問題を全く捨て去るのではない。ただ「括弧に入れる」。これはマルクスの立場であるという。マルクス主義はここのところで大きく間違って、全てが生産様式の発展において解決できると考えた。これはマルクスというよりもエンゲルスもしくはマルクス主義の考えであると吉本は指摘する。マルクスはヘーゲルのつくりあげた「精神現象学」を「括弧」に入れて、生産様式に関する探究を進めたが、「幻想論」の領域を廃棄したのではないと吉本は考える。

「(マルクスは)人間と自然との相互規定性という媒介と、宗教・法・国家というような、社会的人間の幻想的な疎外の性格という媒介をもうけ、その両端からおもむろに人間の社会的な存在の像を浮かびあがらせている。」(「自立の思想的拠点」p.224)

「法・国家というものは、何らかの意味で人間の観念が無限の自己としてうみだした宗教が、個別的なものから共同的なものへ転化され、それによって社会的国家の外に国家をうみだしたものである。」(「自立の思想的拠点」p.235)

「まず宗教が人間にとって絶対者である神の意識を幻想的にうみだしたとき、この幻想と人間との関係は、無限なものと限りあるものとの自己意識のなかでの二重性になってあらわれる。これは祈りやお告げによって、あるときは人間が無限なものになりたいと願い、あるときは無限なものへの祭拝となってあらわれる。そして、このような自己意識の内部での無限と有限との葛藤は、現実の社会では他の人間との関係となってあらわれるほかはない。人間は他の人間になりたいと願ったり、お告げをうけたいと祈ったりするのである。こういう宗教の意識は、もし人間が動物にちかいように、食べたい自然のものを食べたいときに食べて生活することができなくなり、すこしでも社会を構成して利害を共にするほかに生活してゆけなくなるまでになると、はじめはただ能力の大きいものと能力の小さいものとの優劣関係しかなかった人間の社会構成が、この宗教の意識にたいして現世的な利害を対応させるようになるのである。こうなれば宗教は掟(法)の意味をもたざるをえなくなる。そして法は、じぶんが住みつくことができる人間の社会の構成をかぎってゆく。それは国家の原型のもんだいである。」(「自立の思想的拠点」pp.225-226)

さて、以上大雑把に吉本の思考のモチーフについてまとめてみたが、最後にもう一点、吉本がこだわりを捨てきれないでいるものについてふれておく。

それは、「発展」「進歩」概念である。経済的な発展と、科学技術の発展は、決して逆戻りできない、そればかりではなく、前に進むことによって確実に以前のもののもつ矛盾や欠陥を克服して必ず良い方向に向かう、というのが進歩思想である。この進歩思想の根底には、人間の自然に対する働きかけが、自然史と同様の流れをもつものとして描かれる。だが、ダーウィンの進化論の影響か、自然史そのものが発展史的にとらえられてよいかどうか、もっと怪しんでもよいはずであるし、ましてや物質的豊かさやモノを所有することの豊かさが「無限」に「成長」するという考えを盲信できるのは、やはり「戦争世代」に特有の思考であって、それほど普遍性を帯びたものではないのではないだろうか。

もちろん経済的、物質的に貧しいよりも豊かである方が良い、ということを否定するのは困難ではあるが、この「経済」や「モノ」の「豊かさ」のただなかで生きてきた人間たちにたいする洞察や思慮が吉本は一切欠けている。「ぼくは・・・」「ぼくたちにとって・・・」と吉本が自らの論を唱えるのは勝手であるが、それを「普遍」の領域にまで敷衍することがしばしばある。そのような言い回しにはいつも辟易せざるをえない。敢えて吉本の思考の批判をするとしたら、ここである。

反核異論やコム・デ・ギャルソン賛美、麻原彰晃擁護で論争になった時に、最も違和感を抱くのはここであろう。吉本は戦後ここまで日本はやってきて、明らかに「豊か」になり、「明るく」なったと言う。彼にとってその謳歌は、ある意味ではごく当然のものであるのかもしれないが、我々の側からすると、むしろ「本当にこれで良いのか?」という不安感や焦燥感がつきまとわざるをえない。これ以上必要ない、という場合もあるし、このへんで十分、とか、ちょっと前の方が良かった、という場合もある。ましてや、それこそ地球環境破壊や原爆・原子力そしてテロリズムというもっと巨大でグローバルな恐怖、天皇制や敗戦よりも規模の大きい恐怖、吉本の考える共同幻想には包摂しがたい(つまり吉本の共同幻想は国家という枠において制約を受ける。つまり超国家的な異人恐怖や憑依には向かわない。マスイメージのみがその枠を超えて論じられたにすぎない)「世界幻想の領域」とでもいうべきものが我々を圧迫していることに彼は、いささか鈍感である。彼が敗戦によってそれまで天皇崇拝していた自分にショックを受けたのは、自分が生き延びることができたからであるが、原爆や地球環境破壊、オウム真理教やNYを襲ったテロはそれこそハルマゲドンとして我々の意識の内側に入り込み、ショックや批判、戦い、という次元とは異なる感情(それは、あきらめ、であったり、自暴自棄であったり、する)をつくりだしているように思える。

参考文献
吉本隆明『全集撰3 政治思想』大和書房、1986年(引用頁は全て本書)



政治思想 (吉本隆明全集撰)/大和書房
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もうひとつのヒロシマ ドキュメント 中国新聞社被爆 御田重宝 現代教養文庫 1987.08

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高台にある、というのが「売り」の新築中のマンション。このあたりはやや高台のようなところではあるが、高台というほどではない、と私は思う。


読んだ本

もうひとつのヒロシマ ドキュメント 中国新聞社被爆 
御田重宝 
現代教養文庫 
1987.08


ひとこと感想
広島に落とされた原爆の爆心地より1キロ東にのところにあった中国新聞本社は壊滅的な被害に遭った。その後社員や関係者の動向を中心にしつつも、当時の社会情勢を描く。いつもは取材する側である記者たちは、自らも当事者となっている。

***

本書は7章に分かれている。

1 長い一日

これはもちろん、1945年8月6日のことである。

ここには興味深いエピソードがある。

「海軍調査団員だった、神津幸直少佐
(当時三四歳、現中国化薬社長)の回想によれば、広島入りした直後、第二総軍の兵器部長から、「硫酸爆弾に間違いない」と聞かされ、反論するのに手間がかかったという。原爆を米国が保持しているという事実は、確実に日本の敗北を意味する以上、軍部は、動かぬ証拠をつきつけられるまで、認めたがらなかったのである。」(40ページ)

この「硫酸爆弾」という表現は、はじめて聞いた。

「当時、すでに小型マッチ箱くぐらいの大きさの爆弾で、軍艦一隻は楽に沈めることができるという話が、かまり広く知れ渡っていて、少年科学雑誌でも紹介されていた。要するに「原子爆弾」であり「連鎖反応」という用語も使用されていた。」(83ページ)

もちろんそんな小型の爆弾ではないことは言うまでもない。

また、ここでは、松重美人カメラマンの当時の動向についても詳しく述べられている。

ほか、当時の国内のラジオ放送が、広島中央放送局のみだったことが記されている。

「軍の管制下に置かれ、警戒、空襲警報の発令、解除がローカル放送局の大部分を占めるようになったのはいたし方なかった。
 放送局のもう一つの重要な仕事は妨害放送であった。」(102ページ)


2 原爆第一報

以降の、原爆投下に対する報道や報告などの経緯をたどっている。

1945年8月7日の朝刊について、たとえば大阪朝日は、広島への原爆投下は、次のように、大本営発表をもとにして、西宮や今治、前橋の空襲記事の一部として、次のように掲載された。

「6日7時50分ごろB29二機は広島に侵入、焼夷弾攻撃で若干の損害」(111ページ)

こうした形で、マスメディアが虚偽の発表を行った歴史は、以後も、信憑性や信頼という意味で、大きな痛手を与えたと言えるだろう。

なお、原爆第一報については、防衛庁公刊戦史において、「原爆第一報は第二総軍――宇品船舶司令部――大本営の経路で午前10時以降に届いた」(118-119ページ)というのが、午前10時以降というのが午後も含むという意味において、もっとも信憑性があるとしている。

第二総軍復員関係資料においては、「午前10時ごろ防空壕の中に戦闘指揮所を設置し、広島市の大火災を見て「これは特殊爆弾かもしれないぞ」と判断し、大本営に報告した」(119ページ)とまとめている。

しかしその後も、かたくなに原爆であることは伏せられ、せいぜい「新型爆弾」と後に伝え、そうこうしているうちに、ポツダム宣言の受託となる。


3 再建への鼓動

中国新聞社のその後の動向を追いかける。

ハイデガーが技術論において注視したのがゲシュテル、すなわち、「徴発」である。

「支局に戻ると四方八方に電話して、トラックの"確保"に務めた。うまく吉舎のトラック業者をつかまえることができた。秋山支局長の表現をかりると"徴発"したわけである。トラックを借りる金額は記憶にない。が、トラックは広島に到着後、軍か県に"徴発"され、数日後、運転手もろとも使われた。」(195ページ)

それにしても、戦争が終わるまで軍部は「原爆」という言葉をマスメディアに使わせないようにしていたというのは、本当に、福島第一原発の炉心溶融と同じような奇妙な「なれあい」を感じさせる。

「戦争が終わるまで「原爆」という文字が新聞に掲載されることがなかったのは、大本営と内務省の"規制"による結果である。」(219ページ)

こういっては酷かもしれないが、平然と、当時は仕方がなかった、と書けるマスメディアは、とても悲しい。

それはジャーナリズムではなく、単なるマスメディアである。


4 原爆の投下責任

原爆投下について、誰がどのようにかかわったのかを検証している。この点については他の書でも詳しく検討されている。

本書では、英国、P・M・ブラケット、広島大の山田浩、東工大の永井陽之助の説を紹介している。

ポツダム宣言に対する「条件付き」受託は10日であり、その「条件」を連合軍側が「受託」したのが14日。この間、国内の新聞などでは、陸相の「断乎、聖戦を戦い抜かん」といった談話が載せられていた。

これは若手主戦派将校らの圧力によるものだった。こうした「圧力」による報道側の「規制」というものは、今なお、人々の心に大きく報道への猜疑心として残されている。


5 輪転機を回せ

再び、中国新聞の動向。このなかに、「70年不毛説」への言及が含まれている。
それは、消失した輪転機工場を復旧整備すべきか、疎開工場(温品)のほうを本格的に稼働させるか迷ったからであった。

70年(75年)被爆地には住めない、という流言はどのようにして起こったのか。

1945年8月24日、新聞の紙面に掲載されたのが最初だという。すなわち、この「流言」は新聞記事によってもたらされたのである。

毎日は、「今後70年は棲めぬ」と書き、その根拠として米国の「放送」としている(317-318ページ)。

朝日の方は、「75年」となっており、米国が「死の都市になる」と宣言したとし、これに対して、浅田常三郎という大阪大の超電波学教授のコメントは、日本が抗議したことによって75年説は撤回されたが、それでも不安である、といったような内容で、かえって不安をあおる結果となっている(318ページ)

当初こうした説を出したのは、ハロルド・ヤコブソン(コロンビア大、博士)と言われている。これに対して陸軍は、1945年8月9日「シカゴ・トリビューン」紙にてこれを否定している。

知ってのとおり、仁科芳雄らの調査団は残留放射線については特に注意を促していない。都築正男にしても、一貫して「不安なし」としているはずであるから、どう考えてもこれは新聞の罪が大きいように思われる。

 所謂「原子爆弾傷」に就て 都築正男 1945.09.08
 http://nukes.hatenablog.jp/entry/2013/04/05/113328

中国新聞は9月4日の段階でこの内容をキャッチし、記事にしている。が、その効果は残念ながら薄かった。


6 またも試練が

柳田邦男によってよく知られるようになった枕崎台風のことが描かれている。ここで重要とされているのは、この台風によってもたらされた被害ではなく、「効果」である。

「枕崎台風が、中国新聞社をはじめ、多くの広島企業に、市内復帰への一つの転機を与えてくれた側面もあることを見過ごすわけにはゆかないであろう。(中略) 枕崎台風の豪雨と暴風が「放射能を吹き飛ばしたかもしれない」という心理的影響をも与えたのである。」(376ページ)


7 うなる輪転機

その後の中国新聞の動向を中心に描いている。




もうひとつのヒロシマ―ドキュメント中国新聞社被爆 (現代教養文庫)/社会思想社
¥950
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技術社会(上・下) ジャック・エリュール すぐ書房 1975.05、1976.05

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読んだ本

技術社会(上・下) エリュール著作集1,2
ジャック・エリュール 
島尾永康、竹岡敬温訳
すぐ書房 
1975.05、1976.05




La Technique ou l'enjeu du
siècle
Jacques Ellul
1954
(The Technology Society, 1964)

ひとこと感想
技術論の古典の一つだが、今やほとんど言及されなくなった。本書では「技術」を「機械」に限定せず、人文社会科学のソフトウェアを含む。

***

エリュールは本書の冒頭で「技術」の定義づけを行う。

「私の用いる「技術」という用語は、機械、テクノロジー、あるいは、ある目的を達成するための、あれこれのやり方を意味するものではない。われわれの技術社会では、技術とは、人間活動のすべての分野で、合理的に到達された、また(特定の発達段階での)絶対的効率をもつ諸方法の総体である。」(7ページ)

私たちは一般的に大学の学問領域を「理工系」とまとめて呼んでいる。理学と工学は、確かに、「科学」と「技術」といったように近似的なものであるという見方もできるが、その「対象」を考えると、「科学」は「自然」であり、「技術」は「人間および人間が生きる世界」である。

すなわち、「技術」とは当然、「自然」の領域にあるのではなく、「社会的、人間的、精神的事実」(19ページ)である。

「人間と機械」という対立的な説明はできない。

「それはもはや人間と顔をつき合わせるのではなく、人間に統合されるのである。」(24ページ)

それゆえ「科学技術」という言葉も、エリュールは退ける。

「歴史的にいえば、科学と技術との関係は逆でなければならない」(25ページ)

つまり。技術とは、人間が人間たる所以とも言えるほどのものであり、たとえば、石器を用いたり、言語を用いたり、共同体を形成したりと、こういうものを「技術」と呼ぶのであって、「科学」はあとからやってきたにすぎない。

もちろん、科学の登場によって、技術は大きな転換期を迎える。つまり拡大がいように激化したのである。

ところがそうした中でも、逆転現象が起こっている。

「今日ではすべての科学的研究は、膨大な技術的準備を前提とする(たとえば、原子力研究)。」(26ページ)

湯川秀樹をはじめ、20世紀初頭の物理学者たちは、その理論を「実験」がなくともうちたてることが可能であったが、その技術的実証(すなわち、実験結果)がなければ、最終的にはその「理論」は無効であった。

「技術的手段が存在しないときには、科学は進歩しない。」(26ページ)

トインビーが「技術時代」から「組織社会」へと変わりつつある、という現状認識を行うのに対してエリュールは、むしろ「組織」こそ「技術」だとする。

これは「経営」といってもよいだろうし、「管理」と呼んでもよい。

「技術がめざす理想は、それが出会うすべての機械化である。」(32ページ)

こうしてエリュールは現代の技術が、「機械的技術」や「知的技術」のほかに、以下の三点が下位概念としてあるとする。

1)経済技術
2)組織技術
3)人間技術

「経済技術」には生産、労働、経済計画などが含まれ、組織技術には国家、行政、司法、政党、戦争などが含まれる(これはフーコーで言えば統治技術ということであろうか)。

「知的技術」とは、図書館やカード索引が例として挙げられているが、現在からみれば、要するに、インターネットやパソコンの世界はすべてこの「知的技術」ということになる。

他方「人間技術」とは、人間自身が技術の対象で、医学や遺伝子学、またさまざまなプロパガンダ(教育技術、職業指導、宣伝など)を含む。

「孤立した個としての人間に関する技術があり、社会的存在としての人間に関する技術もある。人間の精神にかかわる技術もあり、身体にかかわる技術もある。別の技術は人間の意志に関係し、物質が精神となり精神が物質に活気を与える神秘的な領域にも関係する。子供にも大人にも胎児にも長官にもかかわる技術もある。」(下、181ページ)

上記のように述べたうえで、以下の項目を例示している。

 ・教育技術
 ・労働の技術
 ・職業指導
 ・宣伝
 ・娯楽
 ・スポーツ
 ・医学

このなかでは「宣伝」がダントツに面白い。

「宣伝」とは「プロパガンダ」でもあるが、現象としてはきわめて広範囲に見受けられる。

「宣伝」は一方では、「非常に多くの人に直接コミュニケートすることを許す、機械的技術の複合体」(下、208ページ)であり、他方では、「人間精神に関する正確な知識への接近を許す、心理学的技術の複合体」(同)である。



本書では論じられていないが、言ってみれば、功利主義こそ、私たちの哲学の技術化にほかならない。

それゆえ、現代社会においては、功利主義こそが哲学の中心とならねばならないのである。

一方、デザインこそ、これまでの社会とは異なり、まさしく技術社会における人間の営みの代表的概念である。

確かにそういう意味において言えば、デザインは、カルチュラル・エンジニアリングかもしれないが、同時に、カルチュラルテクノロジーと言ってもよいかもしれない。

これは、アート(芸術)のテクノロジー化、という言い換えでもある。




エリュール著作集〈1〉技術社会 (1975年)/すぐ書房
¥1,944
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思考する動物たち 人間と動物の共生をもとめて ジャン=クリスト・バイイ

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ロバの目は何をみつめているのか、いや、何を思考しているのか

カラヴァッジョ「エジプトへの逃避途上の休息」(1595-1596)
Riposo durante la fuga in Egitto, Michelangelo Merisi da Caravaggio (1595-1596)

読んだ本
思考する動物たち 人間と動物の共生をもとめて 
ジャン=クリスト・バイイ
石田和男、山口俊洋訳
出版館ブック・クラブ
2013.12

Le versant animal
Jean-Christophe Bailly
2007

ひとこと感想

本書のどこを読んでも副題にある「人間と動物の共生をもとめて」といった内容はないし、帯にあるような「西欧人間中心主義を脱構築する」ことはない。ただただ、

人間主義からの脱却を訴えつつ、動物たちの「まなざし」が「世界」において存在している証であり、ゆえに、動物たちもまた「思考」している、とするところに本書の特徴がある。

***

「動物の世界の不思議さは、人間のそれとはの連続性、の飛躍、そして単にの存在様式として、独自に考察されるべきではないか」(6ページ)

これがバイイの本書の問題の出発点である。

一方「人間」にとって「動物」とは、「忌まわしき獣性」「恐るべき動物性」(11ページ)であり、自分たちそれを克服してき、とみなしている。すなわち、「動物」全般に対して「人間」は「動物」を超えた存在として自らを規定してきたのである。

しかしバイイはこの両者の線引きも、かなり怪しく揺らぎ続けているとみなす。

その揺らぎに魅惑された人物として、何よりもバタイユをとりあげる。「失われた内奥性」(23ページ)というキーワードだ。

ラスコーの壁画 (ジョルジュ・バタイユ著作集)/二見書房
¥3,240 Amazon.co.jp


だが、本書は、あまり掘り下げるといった作業が行われない。思考のためのヒント集のようなもので、こういう考え方がある、といったトピックがいくつか並べられているという構成である。

人間と動物との関係にはいろいろあるが、いずれにせよ、人間がつくったものである。

「人類の歴史は、いくつかの大きな断絶を伴ったこの関係の変化によって語ることができる」(30ページ)

そのなかでも特筆されるのは、アドルノ、メルロ=ポンティ、デリダ、である。

「そこでは、動物は、研究対象や寓話的モチーフや反例としてではなく、まったく別の形で考察される。動物自体が何か思考のようなものではないかという推測がはじまるのである。」(32ページ)


さまざまな動物が向ける「まなざし」に「思考の道」「思惟の道」(36ページ)をバイイはみる。

この「動物たちの思考性」については、個人差があり、「放心しか認めようとしない人たち」(37ページ)もいれば、「近づいた人」「ちらっと見たかもしれない人」「すぐに顔をそらしてしまった人」などさまざまな接し方、理解の仕方があることを認めている。

「動物たちの思考性は、気晴らしや好奇心のことではない。この思考性によって明らかになるのは、私たちが生きている政界が他の生物たちから見られているということだ。」(38ページ)

「人間中心主義から抜け出してほしいのだ。」(同)

ほか、リルケが動物たちの「目を瞠る能力」(43ページ)をみとめるとともに、ベンヤミンのアウラも、動物のみならず、無生物にもかかわるとしている。

他方でハイデガーがその対極にある思想として位置づけられる。

「動物は「世界において貧しい」という彼にとって本質的かつ中心的な――主張を支える論拠が、リルケにあっては逆に動物界の「世界における豊かさ」を支えている。」(49ページ)

ハイデガーは動物には「形成」(Bildung)がないとして、「開かれた世界」を人間に固有のものとしているのである。

こうした隔たりはどこからやってくるのか。バイイは、「思考」というものへの理解の違いではないかと仮説をたてる。

瞑想や、ロダンの「考える人」のような活動だけが「思考」ではない。

強いて言えば人間が時間を把握するやり方だけを有しているのではなく、ぼんやりと「流れ」に身を任せているようなあり方(バイイはこのような言い方はしていない。これはベルクソン的なとらえ方で、私が勝手に付加したものである)、これこそが、動物たちの「思考」に近いものではないだろうか。

ほか、モーリッツの「アントン・ライザー」という小説にもふれている。こちらはリルケとは対照的に、人間と動物の差異の消失の経験を描いている。

この「消失」とはすなわち、「存在者」ではなく「存在」にかかわる。ハイデガーは動物たちを「存在」の側、すなわちただ「あること」の側に仕分けを行ったが、バイイは「まなざし」ということから、「存在者」に「動物」も包含させる。そのうえで、「まなざし」をもたない「植物」は「生きもの」であっても、「存在」の側に仕分ける。

「生物を二分する主要な違いは、この視覚にある。」(69ページ)

動物のまなざし。これについてもいろいろな例が出されているが、たとえばカラヴァッジョの「エジプトへの逃避途上の休息」には、奏楽天使と聖ヨゼフのあいだにロバが描かれている。いや、正確にはロバの「まなざし」が描かれている。

ほか、ピエロ・ディ・コジモの「プロクリスの死」における、犬のまなざしについてもふれている(トーマス・マンやカフカは省略)。

ユスキュルの「環境世界」論は、しばしば、ハイデガーが参照したことで知られているが、同時に、メルロ=ポンティもとりあげている。


「メルロ=ポンティは動物とは合目的性の表れではなく、むしろ表出や提示の実存的価値の表れ」だというのである。つまり動物とは、まったく言語として理解すべき外観の表れなのだ。」(114ページ)

ほか、誰がいるのだろうか。と思っていると、プロティノスである。プロティノスは、「動物のような理性的存在」(129ページ)と記すとともに、「植物やそれを生みだす大地」もまた、「生産、観照、実践としての思考、そして記憶」(同)なのである。

全体に、問題提起的に、素材を数多く提供してくれているものの、本書そのものには思考の厚みはない。本書を起点として、言及されている書物や作品をもとに自ら思考することが、読者には求められているようである。


思考する動物たち―人間と動物の共生をもとめて/出版館ブック・クラブ
¥2,376
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動物と人間の区別――レヴィナスの場合

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読んだ本
甦るレヴィナス 『全体性と無限』読解
小手川正二郎 
水声社 
2015.02

以下は、上記の本をただ一点、「他者」における「人間」と「動物」の区別というテーマからのみ読んだ結果の感想であって、本書全体に対する理解ではないということを強調しておく。また、レヴィナス、小手川といった言述の主体的区別は基本的に行わず、この「本」の(小手川によるレヴィナス解釈の)言説として考察していることをお断りしておく。

本書の主題は「自我による他人の理解」(22ページ)とされている。

そして「理性」が、「他人との倫理的関係の担い手」(26ページ)であるとみなされている。

「他人」というものと「他者」とは、区別される。

「他人」とは「個々の具体的な人間」(59ページ)である。

「他者」とは「(自我と異なるあらゆるものを指しうる)「他なるもの」ないし「自我と根底的に異なるもの」(同)である。

これを「欲求」と「欲望」と関連づけて言えば、「欲求は自分の欠如に由来するのに対して、欲望は自分の求めるもの(他者)に由来する」(61ページ)。

「自分の欠如」とは、一般的に考えて、空腹であったり、眠かったりすることであろう。

他方、「他者に由来する」というのは、ヘーゲル(コジェーヴ)の言う「他者の欲望」というやつだろう。

ところで、「他人」は自分以外の人間として分かるとして、「他者」とは、何であろうか。

・世界
(64ページ)
動物(66ページ)
・事物
(64ページ)
・他人
(64ページ)

これらを包含している。すなわち「他者」のなかに「動物」は含まれている。また「人間」の「他人」も含まれている。しかし「他人」には「動物」は含まれない。

すなわち、「動物」は「他人」と異なる「他性」を有している。

「人間」と「動物」は、はっきりと区別されているのである。

だがここで重要なのは、こうした「区別」の仕方ではなく、なぜこうした「区別」が生まれるのか、である。

「人間」と「動物」の区別は「相対的」なものではなく、「絶対的」なものである。

「確かに、動物の「他者性」を強調する人々のように、他の動物が人間と共通の能力属性をもたないがゆえに、人間にとって他なるものであると言うことはできる。しかし、こうした把握は、あくまで「自分が何であるか」ということから出発して他者の他性を規定する作業であり、自我の概念枠組みを尺度としたものにとどまっている。」(150ページ)

上記が「人間」と「動物」の「相対的」な区別の考え方である。

では、「絶対的」とはどうなるのであろうか。ちなみにこの区別は、「自我」ならびにそこから発生する「概念」すなわち「言語」とは無縁のもの、というわけではない。

「他者」とは、「概念化」しえないものではなく、「自我が根底的に異質なものを受け取る」(151ページ)ことによって「概念化」されたものであるからだ。

ただし、そうした「区別」は何も、「動物」の問題、たとえば、動物虐待や自然破壊を問題にしない、ということを意味するのではない。

すなわち、「人間」の暴力、いや「他人」と「自我」とのあいだで生まれる「暴力」(や「殺害)と、それ以外の「暴力」(や「殺害」)は、分けられるべきものである。

***

以上のようにほんの一部ではあるが、「人間」と「動物」の区別にかかわる記述のをとりあげてみた。

確かに私も「人間」と「動物」を厳然と区別し続ける意識に対しては、疑問をなげかけたいし、もちろん逆に、「人間」と「動物」がまったく同じだ、という主張にも与することはできない。

それゆえ、ここで展開された「分ける」ということ自体、とても重要な論点であることには強く同意できる。

だが、「分ける」ことへのこだわりは、理解ができるとしても、「分けられた」ものへの問いがどのように展開されうるのか、
その端緒が素描されているにすぎず、本書では十分に描かれていない。

今私たちは、ロボットと動物(いきもの全般)の双方から、問いかけられている(もしくは、私たちはロボットと動物を通じて、「他者」関係を問い直そうとしている)。

私たちが彼らと接しているなかで、そうした他者とどう向かいあうべきか、「彼らから」問われており、私たちはこの問いから逃れることができない。

10年前ならいざ知らず、2015年に刊行された本としては、ただ異なる、というだけで終えることなく、もう少し明確な「倫理」の像を提示してほしかった。

といっても、ここでは、以下のようなステロタイプ的な主張が繰り返されているわけではない(259ページ)。

・言語能力を有する成人だけに焦点をあてる
・父子関係を特権視する
・動物や自然に対して人間を特権視する

むしろ、「生物学的類としてのヒトやヒトが有する諸能力だけを人間に帰す」(263ページ)ことはできない、とし、「人間性」とは、必ずしも「ヒト」だけのものではない、ととらえられてもいるのである。

では「人間性」とは何か。この点も、もう一歩ふみこんで考えてみたいところである。

しかし、それとともに、「動物への倫理的係わりは人間への倫理的係わりと同種のものとは考えられない」(264ページ)という前提を置いている。なぜだろうか。

その例として、こう書いている。

「動物に語りかけたり、動物に席を譲ったりすることが「倫理的」と言えるだろうか」(264ページ)

「動物」全般はさておき、我が家のネコのことを考えた場合、ここで言うような、語りかけることも、席を譲ることも、十分に倫理的であるように、私には思われる。

すくなくとも私は「倫理的」と言えない、という確かな根拠をもちえない。

「人間性」に拘る理由は何であろうか。もしくは、動物にもある「人間性」とは何か。

もしもこの問いが、相手からも同じような応答がかえってくることが可能かどうか、つまり、動物のほうが語りかけてきたり、動物のほうが席を譲るということが、ありえないということを論拠にしているとすれば、いささか、疑問が残る。

動物もまた、語りかけてくるし、まなざしを向けてくるし、席を譲ることもある。いや、少なくとも我が家の猫は、食卓の席を譲る。

また、食事の時間には、猫の「ゆいた」はごはんを食べなくても、食卓の「自分」の席に座って、食事を「共に」する。

そういう日常を送っていると、私には我が家の猫に対して、「倫理的」でない、と断言する(もしくはそうした区分を行う)理由がないのである。

本書は、一言でまとめると、こういう考えだということである。

「動物への倫理的係わりを「人間的」倫理の一部とみなす」(270 ページ)ほうが、よりよく動物への関わりの問題を考えることができる。

こういう主張に、特に異議はない。

だが、私が疑問をもつのは、ここではない。

実際に本書が、人間の「他人」と、それから絶対的な「他者」について論じるにもかかわらず、その「他者」にかかわる「動物」には関心をあまり示さなかった(論じることをためらった)ことである。

もう一歩、議論を進めてほしかった。

たとえばデリダならば、次のように述べる(本書ではデリダのレヴィナス解釈を肯定的にはみていないけれども)。

見る動物の、彼ら(=レヴィナスら、以下同)を見つめる動物の経験を、彼らは彼らの言説の、理論的ないし哲学的建築のうちで考慮しなかった。彼らはその経験を、要するに否認したのであり、それに劣らず誤認もしたのである。」(ジャック・デリダ『動物を追う、ゆえに私は(動物で)ある』鵜飼哲訳、筑摩書房、2014年11月、36ページ)


甦るレヴィナス―『全体性と無限』読解/水声社
¥3,780
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これでいいのか福島原発事故報道 丸山重威 編 あけび書房 20011.5

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読んだ本
これでいいのか福島原発事故報道 
丸山重威 編 
あけび書房 
20011.05.30

ひとこと感想
「報道」に特化して問題点を論じているが、加えて、「報道」されてこなかった側面により強く光があたっている。事故後わずかな期間のうちに書き上げられたわりには密度が高い。それは本書が8人の共著であるとともに、その編者の力量によるものであろう。

***

1 「想定」されていた原発事故 
政府と電力会社が起こした人災へ福島から怒りの告発
伊東達也

伊東は「原発の安全性を求める福島県連絡会副代表」「原発問題住民運動全国連絡センター筆頭代表委員」としてこれまで活動してきたなかで得た情報を提供している。

1991年以降、
「原発問題住民運動全国連絡センター」の全国交流集会や年次総会で、次のことを言い続けてきた。

「日本で原発の過酷事故が発生する場合は、地震が引き金になる可能性が高い」(17ページ)

また、
「原発の安全性を求める福島県連絡会副代表」としては、2カ月に一度のペースで東電本社に行き、地震対策に万全を尽くすよう繰り返し求めてきた。

特に2004年以降は「チリ津波級に襲われれば、原子炉内の崩壊熱を除去するための機器冷却系が機能せず、最悪の状態が発生するので、抜本的な対策をとるべきだ」(18ページ)と東電に求め続けていた。

これまでも地震による事故はこれまでも多々あった(以下、福島第一原発飲みのデータを列挙)。

1978.06.12 送電ガイシ破損、1,2,5号機が送電停止
1983.07.02 3,6号機がタービン停止
1987.04.23 1,3,5号機が出力異常上昇で自動停止
2000.07.21 6号機が小口配管破断で自動停止
2003.05.26 1,2,4号機が汽水分離器脚部曲がり
2005.08.16 2,6号機が使用済燃料プールから水漏れ
20008.05.08 2号機がタービン建屋で3か所水漏れ

そのため、伊東はくりかえし十分な対策をとるよう、東電などに説明を続けていた。

本書には実際に
「原発の安全性を求める福島県連絡会」が東電に提出した文書を掲載している。

題名は「チリ津波級の引き潮、高潮時に耐えられない東電福島原発の抜本的対策を求める申し入れ」(2005年5月10日)である。

ここでは、第一、第二両方を対象としており、以下の4点を申し入れている。

1)引き潮によって海水が取水できなくなる問題への対策
2)高潮によって海水ポンプが水没するおそれがあることへの対策
3)津波によって運ばれる土砂への対策
4)チリ津波についての取り扱いの明確化

ここで気になるのは、1)と2)である。実は1)については福島第一原発を対象としている。一方、2)は福島第二を対象としている。

もちろんまったく何も指摘していないわけではなく、「津波の危険性」を強調していることは、重要なことであるが、それと同時に、少しずつ微妙に現実に起こったこととのずれがあることにも、注意しておきたい。

まず、「引き潮」については、今回、大きく問題にならなかったと記憶している。また、高潮についてはこう書いてある(全文はこちら)。

「想定される最大の高潮のときに、第一原発6号機の海水ポンプ14台が20センチメートル水没・・・(中略)・・・。そこで東電は第一原発の6号機については土木学会が発表した直後の定期検査にあわせて密かに10センチメートルのかさ上げ工事をしました。
 しかし、第二原発の海水ポンプは
・・・(中略)・・・今日まで何の手も打っていません。」(25ページ)

確かにここにある「海水ポンプ建屋を見せてもらいたい」という
申し入れが実際に受け入れられていれば、その結果、伊東たちが、あんな場所にポンプを設置していては、高潮で流されてしまう、という指摘がなされた可能性がある。

ただし、同時に、この申し入れにおいては「引き潮」のほうに注意がより強く向けられていることと、土木学会の高潮の「想定」では第一よりも第二のほうが危険だったということも、忘れずにいたい。

また東電側が、いちおうこの土木学会による津波評価を受けて。福島第一6号機については、たとえわずかであるとはいえ、対策を行ったという事実も、見ておかなければならない。

本論には「コラム」という形で、「巨大地震による原発事故を予見した日本共産党吉井英勝議員の国会質問」(2006年3月1日)を掲載している。

こちらについても、「高潮」よりも「引き潮」が強調されていることがわかる。

「津波の場合は、大体、押し波の、高い方の被害がよく話題になりますが、引き波の問題というのも随分ありまして、・・・」(38ページ)

もちろんここでも、「引き潮」だけを論点にしているわけではなく、地震や津波に対する万全の対策を求めている。

「大規模地震が起こった直後の話ですと、大規模地震によってバックアップ電源の送電系統が破壊されるということがありますから、今おっしゃっておられる、循環させるポンプ機能そのものが失われるということも考えなきゃいけない。」(41ページ)

ほか、老朽化した原発の安全性維持の問題についても言及している。

伊東の主張は、これ以外にも、明治(1912年)に水力発電所を猪苗代湖に建設して以来の東電と福島県との関係性をふりかえっている。

***

2 原子力開発における言論抑圧と安全神話の形成 
舘野淳    

「かつて日本で原子力研究が始まった頃、研究者たちの言論が抑圧され、それをめぐる激しい闘いがあったという歴史」(44ページ)をふりかえっている。

ここは、 以前読んだ本と同じ内容なので省略。

 福島事故に至る原子力開発史 舘野淳 
 http://ameblo.jp/ohjing/entry-12038645369.html

***

3 低線量被ばく報道はこれでいいのか 
崎山比早子    

崎山の主張は、事故直後の「専門家」たちの発言が「これまで放射線生物学の研究者が長年積み上げてきた成果を一朝にして覆すような」(62ページ)ものであったというものである。

「成果」とは、こういうことのようだ。「身体を透過し、身体の設計図である遺伝子を傷つける。従って、一度に大量に浴びれば死亡するし、少しであってもがんの原因になりうる、という当たり前の事実」(65ページ)

少しであってもがんの原因になりうる」ということを、「当たり前の事実」とここでは述べているが、この言い回しは、非常に危険である。

・「少しであってもがんの原因になりうる」
・「少しであってもがんの原因になる」

上記の二つの文章は、前者が「可能性」を言っているのであり、後者は「事実」もしくは主述の一致すなわち確定的影響を述べている。それゆえここでは前者の「可能性」を論じているのだから、間違ってはいない。

しかし、この文章には「少しであっても~なりうる」というものなので、「~である」となっていなくとも、「なりうる」という「断定」的意味合いを読み手に与えてしまうおそれがある。

低線量被曝は、懸念すべき問題であり続けており、まったく健康被害はない、という断定はしてはならないものの、かといってこのように、「がんになりうる」という表現は避けたほうがよいと思うのである。

ちなみに、被曝のあとの細胞への影響は、次のように述べられている。

「細胞はDNAの損傷を修復するが、複雑な損傷は修復されにくく、修復されても間違いを起こしやすい。DNAの傷が間違って直されるとそこに変異が起こる。変異は元に戻らないので、後に発がんの原因になる可能性がある。」(69ページ)

このように、「説明」においては、「~にくく」「~やすい」「可能性がある」といったように、三たび、非断定的に述べられており、より適切に読み手は理解できることだろう。

低線量被曝を過小評価する専門家に対する対抗言説は、どうしても、その関係性において、「少しでも危険でありうる」ことを強調することになるため、そこに微妙なレトリックが用いられることもある。

読み手はこの点には十分に注意しなければならないだろう。

***

4 原子力、報道と広報の限りなき同化 
塩谷喜雄    

事故当時の報道のあり方には公正さが欠けており、東電や政府の意を汲んだものばかりだったという指摘をしている。

一例として、線量計が不足していたため事故当初は全員が装着できず、リーダーだけが付けていたことが原子力安全・保安院から報告されても、この実態を報道側は追及しなかったとしている。

ほか、廃炉を宣言する東電の説明は報道しても、その廃炉に至った原因となる東電の事故責任については、十分な追及がないことにも、かなり苛立ちながら述べている。

「記者クラブでの発表情報に依存した独自取材の放棄が、日本のマスメディアの退廃を加速していると言われる。今回の原発事故は、それを極端な形で浮き上がらせた。そして、深部でひそかに進行していた根源的な危機、経営と編集が一体となった権力構造への接近も、表面化してきた。」(83ページ)

この問題は、すでにこれまで進行してきた危機であり、インターネットという新たなメディアが生まれたことにより、一層加速してきたと、私はとらえている。

今や「新聞=テレビ」というメディアは、「報道」を主たる目的としているのではないが、塩谷の言うような、政府や東電の言いなりになるだけの「広報」機関というわけでは必ずしもない。

塩谷の「経営と編集が一体となった」というのは、正しいと思うが、その「一体」は、企業体として、明確に「立場」を打ち出し、たとえば「原発」に対してであれば、「推進」と「反対」といった両端のいずれかを前提とした「偏向」した「報道」が行われはじめたという意味においてである。

しかし本論は、そうしたマスメディアの転換そのものには目を向けず、むしろ、彼らの、現場のありさま(報道側、広報側)を読者に紹介することを選びとっている。

・科学担当の記者の数はそれほど多くない
 ・民放テレビにはほとんどいない

・原子力広報は、どうでもいい数字を脈絡なく大量に発表する
 ・記者はその処理に忙殺される

・原子力広報は、煽りを排除するという名目で、リスクを過小評価する
 ・素朴な不安感を、無知、無理解、非科学というレッテルを張り排除する

・国策であることを理由とした施策は、失敗しても誰も責任をとらない
 ・話を逸らしてマスコミが煽ったことを非難する

・事故報道において専門家は、根拠のない安全と安心の反復を行った
 ・科学に根差した合理的な見識が展開されなかった

塩谷がここで主張していることは、従来のマスコミ批判から大きく逸脱するものではない。

少なくとも、「推進」「反対」という二つの陣営を形成したことは、すでにマスメディアが、かつてのような「報道」機関ではなく、ある種の「広報」機関であること、そして、インターネットというまだ混然一体とした言説空間とどう向き合ってゆくのか、はっきりとしたスタンスを形成していないことにこそ、現在問うべき問題があるように考えられる。

***

5 原発労働者“被曝”の実態 
事故現場で働く、作業員の叫び
布施祐仁    

以下の本にまとめられた内容と重複するので、ここでは省略。

ルポ イチエフ(布施祐仁)、を読む
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11852185889.html

***

6 「原子力安全キャンペーン」の系譜と「がんばろう日本」の仕掛け人
三枝和仁

元々、マスメディアという存在には矛盾がある。経営と記事とは無関係でいられるはずがない。

当然記事を載せる、載せない、批判的になる、ならない、は、広告費や人間関係などの影響がないはずがない。

「ないはずがない」から、
それは問題にならない、と言うのも嘘であるが、だからといって、問題である、と言っても十分ではない。

三枝は、1955年の原子力平和利用博覧会に、「東電など電力会社がメディア対策を重視するルーツがあるのではないか」(116ページ)と推測している。

正力松太郎が全国11か所で博覧会を行った際、読売をはじめ各地の新聞社が動いた。

詳細はこちら。

 博覧会と記録映画に見られる原発推進の力 ~吉見俊哉「夢の原子力」第2章
 http://ameblo.jp/ohjing/entry-11364301925.html

また、競争相手のいない電力会社が広告を出す意味を具体的事例から検討している。

「原発は安全であり、社会にとって必要であるという価値観をもって市民を説得しようとする。」(120ページ)

「消費者に発電手段を選択してもらうという、民主主義感覚が失われているのではないか」(同)

ほか、同じようなAC(公共広告機構)のCMが震災後、無数に流れたことについての解説がある。

広告を自粛した企業が出ると、その「穴埋め」ににACのCMが流される。しかもそのバリエーションは数が少ない。そのため視聴者は繰り返し同じものを見せられるはめになる。が、当時のテレビ局はそういった状況に陥ったときの視聴者側のことを配慮できなかった。

その後次第に不満が高まり、その結果、急遽新たなCMに差し替えられたが、今度は、芸人や運動をする人たちが登場して
「日本」応援をするものだった。

***

7 「脱原発」の声と運動はどう報道されたのか    
齊藤春芽

住民運動の結果、
原発立地を取り下げさせた地域は巻町(新潟県西蒲原郡)のことをとりあげている。

 これについては、以下を参照。

 原発をやめ、新たな方向性をつくる道筋――エネルギー技術の社会意思決定(鈴木達治郎他編著)を読む
 http://ameblo.jp/ohjing/entry-11992222600.html

地元の「新潟日報」が積極的にこの経緯を報道していたのに対して、読売新聞はむしろ「既存の枠組みを揺るがすものとしてネガティブに報じた」(132ページ)という。

また、上関町(山口県)についてもとりあげているが、以下を参照。

 祝島のたたかい 上関原発反対運動史(山戸貞夫)、を読む
 http://ameblo.jp/ohjing/entry-11968758527.html

 原発をつくらせない人びと――祝島から未来へ(山秋真)、を読む
 http://ameblo.jp/ohjing/entry-11973071638.html

ほか、
大間町(青森県)については六ケ所村やむつとの関係から述べられている。

 六ヶ所村ラプソディー、観る
 http://ameblo.jp/ohjing/entry-11825993414.html

 核燃料サイクル施設の社会学 青森県六ケ所村、を読む
 http://ameblo.jp/ohjing/entry-11479488624.html

 美味しんぼ、六ヶ所村の核再処理工場を語る
 http://ameblo.jp/ohjing/entry-10898684562.html

 六ヶ所村、ふるさとを吹く風(菊川慶子)、を読む
 http://ameblo.jp/ohjing/entry-11827071192.html

さらに後半では、環境アセスメント法の問題点や、原発のコスト計算の理不尽さなどを論じているが、このあたりはすでに論考のタイトル(主題)とはずれているので、省略する。

***

8 バラ色の原発推進論とメディアの責任    
新聞は何を論じ、何を伝えてこなかったのか
丸山重威

浜岡原発の停止に対する報道の二分化についてふれる。知ってのとおり、毎日、朝日が肯定的、日経、産経が否定的、読売が消極的、だったが、地方紙はどうだっか。

静岡新聞や中日新聞は、肯定的であった。ただし、これらは浜岡の「停止」に対しての話で、菅直人が「唐突に」要請を行ったことに対しては、全体的に批判的であったことが思い出される。

「原発の是非や将来のエネルギーについての提起より、要請のやり方への批判の方がやさしかったからだともいえるだろう」(151ページ)

重要なのは、これまで新聞各社からは、とりたてて「原発」に懐疑的な記事が表れてこなかったという歴史的事実と、福島第一原発事故後には、これまで通りの主張をより強く訴える立場と、一度懐疑的になるべきだと批判的な立場とが、二分したということである。

これまで、原発を推進する側は、反対派に対して、合理的な説明や議論を行うことに積極的でなかったし、それは今も続いている。

そのなかで、少なくともマスコミの一部が、「問題提起」できるようになったことは、大きく評価してもよいのではないだろうか。

「原発問題では、最初の開発の時からいわれてきた諸問題について、ほとんど議論することなく容認し、ただ「安全策」だけを論じてきたのではなかったか。「原発に反対しない。しかし……」と様々なマイナス面を言って見せる手法。それが「イエス・バット」の考え方だった。」(170ページ)

これは、1970年代に入って、それまでの無条件に肯定するわけにはゆかなくなったなかで選択したマスコミの言説戦略であった。

「問題点の指摘をする。しかし、結局は現状を認め、その改善を求めることになる、というこれまでの新聞社説の姿勢。それが今、問われている。」(172ページ)

すなわちこれを、端的に、二分化して、二項対立の陥穽に陥っていることを私は批判的に述べてきたが、肯定的にとらえるべき点もあるということを、あらためて感じた次第である。

***

資料編として、いくつかの「声明」を掲載している。

2011.03.15

・日本科学者会議緊急アピール

2011.03.16
・核戦争に反対する医師の会声明
 (児島徹、山上紘一、中川武夫)

2011.03.17
・日本反核法律家協会見解
 (佐々木猛也、大久保賢一)
 
2011.03.18
・日本学術会議幹事会声明

2011.03.22
・日本原水爆被害者団体協議会事務局長談話
 (田中熙巳)

2011.03.24
・法律家・ジャーナリスト等有志声明
 (小中陽太郎、杉浦ひとみ、坂本義和、丸山重威、鈴木邦男ほか)

2011.03.30
・原子力推進科学者による緊急提言
 (住田健一、田中俊一、長瀧重信、諸葛宗男ほか)


2011.04.04
・日本ジャーナリスト会議声明

2011.04.16
・日本環境学会緊急提言

2011.04.22
・日本弁護士連合会会長声明
 (宇都宮健児)

2011.04.26
・世界のリーダーに対するノーベル平和賞受賞者による呼びかけ




これでいいのか福島原発事故報道―マスコミ報道で欠落している重大問題を明示する/あけび書房
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池田理代子が描く被爆の悲劇「真理子」(1971年)

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読んだ漫画
真理子
池田理代子
週刊マーガレット
集英社
1971年1月10日、17日合併号

(再掲 原水爆漫画コレクション4 残光 平凡社 2015.07.24)

ひとこと感想
ベルばらの著者による被爆による悲劇。漫画に登場する当時の若者たちは、高校のクラスメートや恋人(家庭教師の大学生)とは真摯に向かいあう一方、親とはきちんとした対話ができずに、いきなり社会問題(政治)に無思慮にかかわっている。

***

主人公の真理子は、高校2年生。成績はそこそこ良いようだが、特に社会や親への不満や不安をもたず、幸せに暮らしていた。

そこに二つの「違和」が入り込む。

一つは、同級生の英子。身体は弱いが絵の才能がある。もう一つは、家庭教師としてやってきたT大4年生の誠也。

こに二人が、次第に真理子を変えてゆく。

英子は、しばしば倒れたり嘔吐する。そのたびに真理子は付き添うが、その「苦しみ」を共有したり伝えようとしないことに真理子は苛立つ。

しかし英子は「しあわせな人ね」と拒絶することにより、真理子は悩みはじめる。

また、誠也は学校の勉強よりも社会問題に関心をもつよう諭そうするが、真理子は抵抗する。

次の日、英子は登校したはずなのに学校には来ておらず、真理子は心配になり英子の家を訪ねる。

そこにいた「おばあちゃん」の姿(おそらく原爆被害を受けた人)をつい、真理子は見てしまう。

そのあと、真理子は病院に行って、はじめて英子が被爆者手帳を持っていることを知る。そこで英子の母親が語る。

「広島の舟入本町に住んでいて被爆したんです。…(中略)…それから5年目にあの子が生まれたとき…五体満足な子だとそれは…喜んだものでしたよ」(296ページ)

ようやく事態をのみこめた真理子。その日の晩には誠也がやってきて、和解とともに、奇妙な感情を抱きはじめる。

「篠崎さん(=英子)になにかすまないような気持ちをいだきながらわたしはじぶんが健康でこうして生きているということにおさえきれない喜びを感じていた」(306ページ)

そして誠也は真理子を大学祭に誘う。そこでは「原爆スライド上映」をするというのを聞いて真理子は動揺する。その理由を誠也に説明する真理子。

日にちが変わり、真理子は英子の病室に行く。身体が弱りはじめているにもかかわらず作品を仕上げようと努力する英子。

だが翌日、英子は還らぬ人となる。

そのあと、真理子は母親相手に戦争をはじめた日本について、疑問を投げかける。ところが母親は「親の苦労も知らないで…いったいどこでそんなつまらないことを…」(320ページ)と戦争責任を問うことに否定的である。

そんな親に絶望して真理子は家出をし誠也のところに行く。

しかし誠也は自分のいのちが短いことを予感し、真理子とは距離をとる。

しばらく月日が流れ、T大の誠也の同級生が訪ねてきて、原爆症で誠也が亡くなったことを伝える。

その後、真理子はT大学に入学し、募金活動を行っている。

「もう二度と…絶対に戦争はおこさせやしない。おこさせるものか! 絶対!! しかしそのためにわたしたちはなにをすればいいのだろう。なにをしなければならないのだろう!?」(336ページ)



原水爆漫画コレクション4 残光/平凡社
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今年1年間(2015年)によく読まれたブログ記事選(核関連)

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ゆく年くる年

今年1年間(2015年)によく読まれたブログ記事選(核関連)

各月で印象に残った作品を1~3作ピックアップしてみました。

▼2015年01月 
記事31本  うち核関連 22本  (56,429字)
もっとも衝撃を受けたのは、渡部昇一「国家とエネルギーと戦争」  であった。無茶にも程があるその内容に、「知識人」とは一体何なのか、深刻に考えさせられた。

▼2015年02月 
記事27本 うち核関連 23本 (46,601字)
もっとも密度の高いルポルタージュだったのが、永田浩三「ベン・シャーンを追いかけて」であった。本当に世界中ベン・シャーンの足取りを「追いかけ」た世界無二の本。

▼2015年03月 
記事33本 うち核関連 29本 (97,266字)
「言説」分析としては陣野俊一「世界史の中のフクシマ ナガサキから世界へ」が秀逸だった。また、原子力の現場を知る者による技術的な事故分析としては桜井淳「日本「原子力ムラ」惨状記 福島第1原発の真実」が腑に落ちた。

▼2015年04月 
記事32本 うち核関連 25本 (77,146字)
原発賛成派として、一通りの見解がうまくまとまっている本として、長浜浩明「「脱原発」を論破する」をとりあげておきたい。推進系の発言に対しても反論している点が特に好感がもてた。

▼2015年05月 
記事31本 うち核関連 21本 (59,182文字)
科学論(史)の見地からフクシマをとらえようとした金森修「科学の危機」、アニメ動画で原発事故を説明しようとした八谷和彦「おなかが痛くなった原発くん」に、それぞれ違う意味で衝撃を受けた。

▼2015年06月 
記事30本 うち核関連 17本 (35,574字)
地道に事実や証言を掘り起こしたドキュメンタリー映画作品の書籍版である伊東英朗「放射線を浴びたX年後」、100年スパンで公害としての原発事故をみつめる畑明郎・向井嘉之「イタイイタイ病とフクシマ これまでの100年 これからの100年」が、強く印象に残る。

▼2015年07月 
記事31本 うち核関連 22本 (70,856字)
2冊いずれも専門家の真摯な記述。後藤政志「「原発をつくった」から言えること」阿部清治「原子力のリスクと安全規制 福島第一事故の"前と後"」

▼2015年08月 
記事32本 うち核関連 26本 (77,555字)
被曝について、丁寧に論じた後藤忍 編著「みんなで学ぶ放射線副読本 科学的・倫理的態度と論理を理解する」が非常にバランスがとれていた。

▼2015年09月 
記事30本 うち核関連 18本 (46,399字)
直接「核」を扱っているわけではないが、「核」の議論において重要なのが「自然エネルギー」の現状と今後への理解である。その意味では、武田恵世「自然エネルギーの罠」は重要な本である。

▼2015年10月 
記事31本 うち核関連 22本 (61,045字)
当時の事故対応の側の記録である、細野豪志、鳥越俊太郎「証言 細野豪志」と、長年福島第一原発で技術者として働いてきた側の省察である名嘉幸照「“福島原発”ある技術者の証言」、そして、カナダの政治学者によるジュヌヴィエーヴ・フジ・ジョンソン「核廃棄物と熟議民主主義」が特に面白かった。

▼2015年11月 
記事30本 うち核関連 17本 (47,434字)
原子力工学にかなり通暁しており、かつ、現場への取材力があり、そして、取材予算がかなりある結果、素晴らしい検証結果をまとめているのが、NHKスペシャル「メルトダウン」取材班「福島第一原発事故 7つの謎」である。

▼2015年12月 
記事32本 うち核関連 21本 (55.063字)
災害が単に死傷者の数で測られるものではないこと、さらには人間への影響だけで見てはならないことを強く訴えた眞並恭介「牛と土 福島、3.11その後。」によって、動物と人間との区別の問題について一歩踏み込んで考えるようになった。

***


2015年に書いた記事は総計370本で、そのうち核関連は283本でした(月ごとにまとめてきた「よく読まれた記事」や、まとめの「核の言説史」は含まれていません)。字数にすると、730,550字。365で割ると1日2,000字。

これで核関連記事は、2011年より通算、1,180本となりました。我ながらここまでよく書いてきたと思います。

もうすぐ、「3.11」から、まるまる5年が経とうとしていますが、その間、相変わらず、原発(稼働・存在)に反対する人は反対しつづけ、賛成する人は賛成しつづけ、そして私のように、右往左往する人は右往左往しつづけ、それぞれの思いをもちつづけて、生きてきたのではないでしょうか。

sかし一方で、1世紀以上にわたって展開されてきた核関連の言説の総体は、一体何を生み出してきたでしょうか。

原子力工学や核物理学、放射線防護学などの近しい学問領域に限らず、さらには科学技術史にもとどまることなく、政治経済史、文化社会史を含めた総合的な把握が求められる核関連の言説史。

当ブログで検証してきたことは、その総体のうちの、まだまだほんの一部にすぎません。

とはいえ、1,000本以上の記事を書いてきたこともあり、それなりに、その総体をつかみつつあるのではないかという予感があります。

いずれ、まとめあげたいと思います。ご期待ください。

***

当ブログの記事をお読みいただいているみなさま、いつもありがとうございます。とても励みになっています。これからも、静かに、しかししっかりと、考察を続けてまいる所存ですので、なにとぞ温かくお見守りくださればと存じます。


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2015年12月によく読まれた記事(核関連)

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2015年12月によく読まれた記事(核関連)

1位 「青い光」(斉藤和義)とJCO臨界事故
2014-07-05 22:05:00
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11888941505.html

なぜか12月は、斉藤和義ブームでした。歌詞しか読んでおらず、どんな曲なのか実は知りません。いつか曲を聞いてみたいと思います。

青い光/Speedstar
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2位 核分裂の発見は誰がしたのか~原爆が生み出されるまで~プルトニウム(バーンシュタイン)を読む
22012-06-18 11:45:08
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11277934273.html

原爆の開発史は数多く刊行されていますが、物理学史を丁寧に、しかも、従来の説とは異なることを主張しているところが本書のおもしろいところです。

プルトニウム/産業図書
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3位 チェ・ゲバラの「原爆の悲劇から立ち直る日本」、を読む 
2013-12-06 21:32:00
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11640397065.html

チェ・ゲバラが広島を訪れたこと、そして帰国後に報告文を書き残していることは、意外と知られていません。

Bolivian Diary of Ernesto ’Che’ Guevara/Jonathan Cape Ltd
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4位 アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか ロナルド・タカキ 草思社 1995.06
2015-12-02 22:17:00
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12102074022.html

ようやく12月に書いた記事が登場。この本以外にも類似したテーマの本は数多くあります。

アメリカはなぜ日本に原爆を投下したのか/草思社
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5位 魔の遺産 石田甚太郎 創樹社 1983.10
2015-12-01 22:00:00
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12100610880.html

こちらも12月に書いた記事。タイトルから関心がもたれたと思われます。しかしどうしてこの本はアマゾンにないのでしょうか。



その他

ジョンの魂のために――芝居 ただいま またね (TARAKO 作) 
2015-12-06 22:12:00
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12103422829.html

おやすみプンプン(浅野いにお) 11巻、を読む
2015-07-04 21:51:00
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12046241620.html

江の島のネコたちが消えた・・・
2013-03-25 12:25:00
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11496426924.html

私がコーヒーが飲めなくなった理由
2013-07-22 08:11:00
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11577690535.html


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赤塚不二夫による被爆をめぐる物語~点平とねえちゃん 1960.08

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読んだ作品
点平とねえちゃん
赤塚不二夫
少女クラブ
講談社
1960年8月臨時増刊号



ひとこと感想
赤塚不二夫の作品は、いつもあたたかい。それは被爆した人を題材にしても変わらない。素朴な内容であるが、味わいのある作品。言説の分類から言えば、「被爆者=白血病」とみる「サダコ」悲劇型に含まれる。

*1966年には以下の作品もある。

 赤塚不二夫と原爆、久平とねえちゃん、を読む
 http://ameblo.jp/ohjing/entry-11781712856.html

***

登場人物
点平
順子 点平の姉(10代後半?)、竹中そろばん教室に通っている
母 仕事が忙しくあまり家にいない
コロッケにいちゃん 「トラチナ万年筆 水上」という平屋に住んでいる

場所
工場が多くある場所。川崎のイメージか。

***

「コロッケにいちゃん」と、ふとしたきっけで知り合った点平と順子。

ところがにいちゃん、めまいがして、「かくん」(22ページ)となっている。

家まで運ぶ、順子。そこで兄ちゃんの病を知る。

「ちいさいとき広島にいたので原爆症になっちゃったんですよ」

「あ、あたししってる。白血球がすくなくなる病気でしょ」(25ページ)

その後、夏休みで順子は横須賀のおばさんのお店にアルバイトに行く。

「久里呉服店」という看板がある。

点平とにいちゃんから手紙がくる。返事を出す。

点平はにいちゃんのところに順子からの返事を見せに行くが、そこには、にんちゃんの返事はない。

数日後、順子はアルバイトを終え帰宅する。そこではじめてにいちゃんの死を知る順子。

「まずしくとも、病気でも、えがおをわすれなかったコロッケにいさんを、順子と点平は、いつまでもわすれることはないでしょう。
 大都会のかたすみの、小さなお話です――。」(33ページ)

「久平とねえちゃん」と比べると、ほぼ同じような設定になっているが、ストーリーが単調である。

こちらのほうが先に書かれたということは、「久平とねえちゃん」はもう少し描写が細かくなったと言うべきであろうか。



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福島第一原発潜入記 山岡俊介  双葉社 2011.10

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自家製バターロール


読んだ本

福島第一原発潜入機 高濃度汚染現場と作業員の真実
山岡俊介  
双葉社 
2011.10

ひとこと感想

「潜入記」「作業員の真実」にもいろいろあるということを気づかせてくれる本。前半は、こっそりと現場に潜り込んで数時間滞在したときのことが書かれ、後半は、数名のインタビューや座談会などで構成されている。

山岡俊介(YAMAOKA Shunsuke, 1959-  )は、大手企業と政治家のスキャンダルを専門としたフリージャーナリスト。愛媛県生まれ、神奈川大学法学部卒。

***

著者が原発作業員として働いたルポを中心に構成。ほか、複数の作業員インタビュー、座談会、樋口健一とのインタビュー。

「福島第一原発の内情の詳細と、作業員の生の声を、これだけ載せた原発関連本は少ないはずだ。」(178ページ)

「決して、世にいう"ゲテモノ本"ではないので、その点、お間違えのないように。」(179ページ)

「いったい、福島第一原発のテロ防止(部外者侵入防止)態勢は、どうなっているのか」(21ページ)

このルポに意味があるとすれば、著者が述べているように、上記以上の意味はない。

2011年6月某日、著者と著者が発行するネット誌のバイトをする男性と2人で潜入を試みる。

正確な日付がないのは、不法侵入ゆえに、証拠を残したくないとのこと。

著者たちは、いわき駅からレンタカーを借り、市内の格安ビジネスホテルで宿泊。

夜は誘導してくれる作業員の2人と打ち合わせ。

Jヴィレッジに向かう経路については、検問を通らない裏道を教わる。

ところがナビがまったく別のルートを指示していたため、混乱しつつ、インターを降り、当初の目論見のルートに入ろうとする。

その後も四苦八苦しながらようやく、駐車場に到着(ただし予定とは違う場所)。

センターハウス内に入り、防護服一式を受け取る。もちろん著者たちはびくびくしながらである。

胸と背中には名前と会社名をマジックで書くのだが、会社名は実在の大手企業名を入れることで、かえって怪しまれないであろうと考える。

ときどき紹介者の作業員と携帯で連絡とりあいつつ、なんとかバスに乗り込む。

国道6号線沿いを走り、1時間後には正面ゲートをくぐり、免震棟に到着。

若干ふらふらしているうちに、線量計のアラームが鳴るが、彼らは使い方がわかっておらず、類推で「免震棟の内部であさえ、警戒するべき放射線量」(86ページ)と「可能性」を書いているが、これではまったく意味がない。

「このたびの潜入取材では、放射線という目に見えない敵と戦う必要があったのだが、そのために欠かせない線量計を十分に使いこなせなかったのは痛恨だ。」(86ページ)

…その後、彼らがきわめて緊張した面持ちで構内をうろつきまわった結果、ようやく、3号機の近く(50メートル手前)にまでたどり着く。そこで証拠写真を撮り、

しかし、これはいったい何を目指したことかといえば、警備やセキュリティが甘いか厳しいかということであり、その意味では、彼らが自由に動き回れるということは、決してよいことではない。

その後強化されたであろうけれども、当時はやすやすと闖入者が自由に行動できたということである。

***

3人の作業現場で働く人のインタビュー。

1)重機のオペレーター(1957年生まれ)
2011年3月29日から31日までの3日間、現場で働く。原子炉建屋の横にスペースをつくるための瓦礫の撤去。その前は小名浜で瓦礫の撤去を行う。実働時間は計15時間。

被曝線量は不明だというが、計器の針は振り切れていたと証言。その後、内部被曝の検査を受けた結果、6.4ミリシーベルトの被曝であったことが判明。

2)
重機のオペレーター(1963年生まれ)
2011年4月半ばから約2か月間。実働は30日ほど。建屋のまわりの瓦礫に液体を撒く仕事。

外部被曝量は15-18ミリシーベルト。内部被曝検査も受けたが、青ランプがついて「大丈夫」でおしまいだったので、数値はわからない。

3)瓦礫の撤去作業(1969年生まれ)
広野の火力発電所での仕事だと言われて行ったら原発での仕事だった。3月14日から4日間、免震棟に泊まり込みで働く。建屋のまわりの瓦礫をショベルカーで撤去する。その後も3月中は5日、4日と働いているようである(正確なことは不明)。

被曝量は不明。内部被曝検査もしたのだが、結果は不明。

***

座談会は、別の3人(青森を拠点に全国の原発で働く)。とび職。「3.11」のときには大飯原発で働いていた。主に。、定期検査のときに足場を組み、各所の補修工事などを行う。

これまで特に大きな被曝をしたことはないし、まわりでもそういうことが起こっているのを聞いたことがない。

正直、これらインタビューや座談会から読み取れるのは、
作業内容や現場にもさまざまあるため、数人の話を聞いてもその全体像が見えない、ということだった。

現場の人間関係や作業のことなどがきめ細かく描かれている漫画の「いちえふ」と比べて、濃度、密度が異なる。

また、興味深いのは、ここに登場する原発作業員6名に共通するキーワードは10代半ばあたりで「ヤンチャしていた」ということである。

***

樋口健二インタビュー

「現在までにも、すでにかなるの原発労働者が「原発ブラブラ病」という倦怠感で何も手につかない廃人同様の体になったり、がん、白血病にかかっています。」(172ページ)

「70年から09年までの原発の総労働者数は200万人を超えます。その4人に1人が被曝しているとして約50万人。そのうち、白血病など被曝の原因が極めて高い死亡者は700~1,000人はいるでしょう。(174ページ)



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