![]()
ネコの彫刻読んだ作品
みよちゃん 死なないで
東浦美津夫
春名誠一 原作
少女
光文社
1958年7月号付録
(再掲 原水爆漫画コレクション4 残光 平凡社 2015.07.24)
![]()
ひとこと感想
作品の質の可否はさておき、戦後10数年後に少女漫画において、原爆投下の被曝による被害を忘れないようにとこうした作品が描かれていることに驚きを隠せない。
東浦美津夫(本名 東浦光男、1930-2012)は神戸市出身の漫画家。手塚治虫の影響を受けて17歳でデビュー。
***
*佐々木禎子の死後3年経ってからの企画。
「広島や長崎には、おそろしい原爆病で、くるしんでいるお友だちが、たくさんいます。みよちゃんもそのひとりです!」(69ページ)という説明が枠外に表記されている。
小学生くらいの子ども3人が、花びらをまき散らせて遊んでいる。
「わーい 死の灰だぞ」
「それ まけ よいとまけー」(70ページ)
このセリフは高度である。「死の灰」を「まく」にひっかけて、「よいとまけ」という言葉をつなげている。「ヨイトマケ」は、日雇い労働者を指す言葉であるが、ここでは、相手を揶揄するための差別的な意識が表れている。
この遊びにたいして主人公である「みよ子」は、怒るが、これに対する子どもたちの言葉が続く。
「やーい 原爆ナスビがおこった」
「そーら きのこぐもが、みよ子のあたまからわきあがったー」
「おまえは原爆病だろ」(71ページ)
この「原爆ナスビ」もまた、巧みなレトリックで、「おてもやんの曲で歌われている「玄白なすび」(できのよくないなすびのこと?)を「原爆ナスビ」に言い換えている。さらには、怒った相手に畳みかけるように「きのこぐも」が頭から湧いていると述べている。
こうした言動をする子どもが当時本当にいたのかどうかはわからないが、それを作品に描いているということは、当時における差別意識ならびにその表出の様式を知る手がかりとして貴重である。
なおこのあと、子どもたちは、「原爆病」であるという証拠として、以下の2点を挙げる。
・体育のときに休む
・右手のやけどのあと
***
このあと、1945年8月6日の回想シーンがあるが、ここでは、「アメリカの爆撃機」が「7機」描かれている。
知ってのとおり、広島に向かったB29は、実際に原爆を落としたエノラ・ゲイ他、気象観測機、科学観測機、写真撮影機の4機のみである。
しかも、原爆を落としたあとには、「5機」のB29が描かれている。
しかも作品内では、敵機来襲のあと、警報が鳴っている。
しかし実際にはここでは警報は鳴らなかった(気象観測機が先だって広島上空を飛んだ際には警報は鳴った)。
また、原爆の様子の描写も、少し奇妙である。
「キューン」と投下がはじまり、「ピカッ」と光り、そのあと、風が吹き、「ドドーン」と風が巻き起こっているさまが描かれている(75ページ)。
これは「ピカドン」という言葉を分解して、その言葉をもとに図像化したもののように思われる。
なお、他方では作品のなかに当時の写真を貼り込み、事実性を強調している(ここでも、産業奨励館が「原爆記念のたてもの」と表記されている)
***
その後、みよ子は倒れる。医者がやってくる(当時医者は家に来た)。
聴診器をあて、注射器を使っただけで、その場で次のように言う。
「おばあさん これは たいへん ですよ」
「この子が 原爆病ですって……そ そんな………なにかのまちがいでは?」(84ページ)
これはすなわち白血球の数が確認され、白血病が疑われたと思われる。それを端的に「原爆病」と医者は命名していない。しかしおばあちゃんはそれを「原爆病」として表現する。
このあと、おばあちゃんはみよ子を「広島原爆病院」に連れてゆく。
ここでも医者は何も断言しておらず、ただ次のように尋ねる。
「ではみよ子ちゃんは この広島で たしかに原爆にあったのですね」(88ページ)
「わたしたちのしんさつがまちがいであればいいのですが」
「よくなることはむずかしい」(89ページ)
このように医者は一言も「原爆病」とは言わない。おばあちゃんがただ「先生 あの子は やっぱり 原爆病なのでしょうか?」と尋ねているだけなのだ。
ここでは欄外に「原爆病のおはなし」と題して、「医学博士 和田栄一」のコメントが掲載されている。
「原子爆弾のために、かすりきずをうけたぐらいで、あとになって死んでゆくのは、いったい、なぜでしょう。それは、爆発で発生した放射能が、血のなかの白血球を、おかしてしまうからです。(中略) ひどくなると、死んでしまうのです。原爆病というのは、このように、こわい病気なのです。」(88ページ)
つまり医者はあくまでも「白血病」という診断をしており、「原爆病」というのは、患者(の家族)の側が述べている、という構図を本作の会話は形成しているのである。
物語そのものは、非常に切ないもので、読む側の心がしめつけられる。
入院しているところに歌手の近藤圭子が慰問にやってきて、コンサートの演奏をみよ子がする約束をしながら、とつぜん倒れてしまったところで作品は終わっている。
「みよちゃん、死なないで」みなさんも、みよちゃんのために、おいのりしてね」(102ページ)
しかも、3人の少女の写真が並び「おねがい! このまんがにでてくる、みよちゃんのように、いま、原爆病で入院している、きのどくなお友だちを、なぐさめてあげましょう!」とあり、「はげましのおたより」を「広島原爆病院」あてに送るよう求めている。
- 原水爆漫画コレクション4 残光/平凡社
![]()
- ¥3,024
- Amazon.co.jp
↧
![]()
読んだ本
私が愛した東京電力 福島第一原発の保守管理者として
蓮池透
かもがわ出版
2011.09
ひとこと感想
東電で32年間、福島第一を含む原発の計器類の管理と、核燃料サイクル計画の仕事を行った著者が、事故をきっかけに、事故の分析や東電の性格や今後のエネルギー政策など、いろいろと語った本。また、原発作業に従事している人の声や伊勢崎賢治との対談も含まれている。
***
32年間、東京電力で働き、2009年に退職した著者。
最初に、著者なりの事故についての概説(感想)がある。
続いて、東電という会社についての説明がある。著者自身の仕事の変遷が述べられる。
著者が東電に入社したのは1977年で、2,3週間の研修のあと、福島第一原発に赴任先が決まる。3年半の赴任で、その後2度目は2年ほど。
保修課に配属され、計測制御装置のメンテナンスを業務とする(監理員と呼ばれる)。
そのときには、1,2,3,5号機が稼働しており、4,6号機が後に運転を開始。
著者は、3,4号機の担当。
「運転」の現場は、主に、東電社員のなかでも高校卒の人たちが3交代勤務でシフトしており、著者は、運転中は、故障が起こった計器類を下請けに依頼して修理してもらうこと、点検中には、計器のメンテナンス作業などの確認を行う仕事。
5年半、福島第一原発での勤務では、約100ミリシーベルトの被曝。東電社員のなかでは被曝量は多いほうだという。
計器類のことに詳しいということであり、当然、事故後に問題となった水位計の数値についての言及もあるが、学術的な分析はなく、大まかな感想が述べられている。
その後1980年に東京本社に転勤、原子力開発研究所に異動し、高速増殖炉の研究を行う。ただし「研究」と言っても、基本的にはメーカに委託する立場で、予算や進行管理係である。ここに3年。
そのあと、原子力計画課。(旧)通産省との安全審査のやりとりを担当。
その後、1989年より再び福島第一へ。副長(係長)という役職で、メンテナンスではなく技術系部門をとりまとめる窓口。
見学者対応、VIP対応、そして図書(図面)管理。
その後再び東京本社の原子力計画課勤務。
そこで理解したことは、東電組織における原発関連の立ち位置であった。
「ほかの部門は、部門間の人事交流があり、異動のときに上司同士が話し合ったりして一定の人間関係ができていたのですが、東電の原子力部門は内部でローテーションしているだけの人事で、他部門との交流がなかなかできないのです。」(56ページ)
続いて、事故に対する「東電社員」の意識について述べられている。
「トラブルというものは絶対に起きる、まったく起きないということはあり得ない、しかし放射線漏れなど周辺の人たちに被害を及ぼすようなトラブルは起きないだろうと思っていました。」(56-57ページ)
一般的に言われている「安全神話」の言説をそのままくりかえしている。
たとえばTMI事故に対しては人為ミスとして「へたくそ」という見方をし、チェルノブイリ事故に対しては型が異なるので単純に比較できないといったようにである。
著者がいたときには、まだ津波対策への意識が薄かったこともあり、ここではきわめてシンプルである。
「「津波については、過去最高潮位が5.7メートルであり、発電所の敷地は海抜10メートル以上あるので問題ないです」といった比較的簡易な審査でした。」(59ページ)
このあといきなり、「今後は津波の審査も変わらざるを得ないでしょう。」(同)と書いているが、すでに事故前よりそういった動きがあることを著者は調べもせずに、自分の経験だけでここは「語っている」のはいただけない。
本書の立ち位置が今ひとつよくわからない。
東電の「社風」については、次のように語る。
「悪質な隠蔽というよりも、独占企業として長年やってきた歴史的な保身の意識だったような気がします。」(66ページ)
ありきたりの内容が続くが、ちょっとだけおもしろい、と思ったのは、次のような箇所である。
「玄海原発の運転再開をめぐる世論誘導が問題になりましたが、現職のころは現に私もやっていました。」(80ページ)
「高速増殖炉まで行き着かないと、原子力発電のメリット、優位性は見いだせない」(85ページ)
対談として、伊勢崎賢治との「拉致と戦争を原発を結ぶもの」が含まれているが省略。
確かに、元東電社員が福島第一原発事故について語る、というのは、それなりに価値がある。
そして、単純に、原発や東電を擁護したり、または、逆に、非難、攻撃するのも、うんざりするが、こうした書物を出す「意図」がよくわからない。
目次
はじめに
1 今回の事故はどういうものだったのか
2 東電は変われるか
3 自滅する原発 原発をフェイドアウトするために
<対談>拉致と戦争と原発を結ぶもの
おわりに
- 私が愛した東京電力―福島第一原発の保守管理者として/かもがわ出版
![]()
- ¥1,620
- Amazon.co.jp
↧
↧
![]()
以下、原水爆漫画コレクション4 残光 平凡社 2015.07.24 に掲載された作品である
***
影
影丸譲也
影(日の丸文庫) 41-2号 (貸本店向け短編漫画誌)
光伸書房
1960
執筆者は、影丸譲也のほか、K・元美津、辰巳ヨシヒロ、石川フミヤス、田中ヒロオ、桑田良一、山口ヨシヒロ、山本一夫、さいとうたかを。
「空手バカ一代」の作者は1940年に大阪に生まれ、1944年に広島県倉橋島倉橋町(現・呉市)に疎開して12歳までそこで過ごしていた(217ページ、改題より)。
主人公は高校生。冬休みに親戚のいる広島に行ったときのこと。
原爆ドームの近くの壁を真夜中に雑巾で拭いている。
自分の影を消そうとしている。
原爆によってあっという間に焼かれた人の影が壁に焼きつけられたという話を主人公にする。
「わしはこの影が消えん限り成仏できんのじゃ」(121ページ)
しかしこの作品、「怪奇 ミステリィ」となっているのは、いかがなものだろうか。
***
The World War 3 地球 The End
松本零士(松本晟)
黒い旋風(貸本漫画) 1号
東邦漫画出版社
1961
松本零士が核戦争を主題に書いたもの。
1966年米ソ陣営の対立が激化するなか、「水爆ロケット」を双方が警戒している。
ここでは「核」のボタンは、トップの1人が押すものではない。各レーダー基地にあるのだ(赤い非常ボタン)。
「もしスクリーンんい敵のロケットが映れば、いつでも反撃の水爆ロケットを発射できるようまちかまえていた」(129ページ)
そのために「悲劇」が誤って引き起こされる。
アリューシャン列島の一つにある最前線の第17レーダー基地には2人の隊員がいる。そのうち1人がカモメに苛立ったことに端を発する。
絵柄はさすがと言うほかないが、ストーリーはそれほどのものではない。
***
地獄から戻った男
陽気幽平
墓場鬼太郎(竹内寛行) 13号
兎月書房
1962
タイトルにあるとおり、変な話なのだが、どこが「原水爆漫画」なのかと思いきや、地獄への道のりの途中にあるのが、「爆弾」が何機も天を向いて並んでいる。
「針の山もない 血の河もないぞ……あれはなんだ……ああ、あれは爆弾ではないか…・・・」(155ページ)
「死人の墓なのかも知れないぞ。戦死した人のものだろう」(156ページ)
そこにいる「地獄の門番」のような男が案内人であるが、先に進むと、ピカドンのような姿が見える。
「ピカドンではないわ。ピカ門というんじゃ。あの門の中こそまことの地獄じゃ…」(161ページ)
おそらく本作で「核」に関連するのは、こうした「舞台設定」だけであり、ストーリーや主題とは無関係である。
***
三度目のさよなら
(シリーズ 黄色い涙 漫画家残酷物語 その21より)
永島慎二
刑事(デカ、貸本店向け短編漫画誌) 34号
東京トップ社
1963
(PRESENT .BY .S.T.PRO シンジ・ゲキガ・コレクション NO5 という表記もある)
漫画家のところに届いたファンレター、漫画家はその人物(渚という名前なので性別がわからない)と待ち合わせ話をすることにする。
会ってみると相手は女性、相手も漫画家が思ったよりも若くて驚くが、喫茶店で会う。
二度会い、三度目の誘いをするが、女性から手紙が届く。
「私が2歳の夏、広島にピカドン(原爆)が落ちました。幸いにも私たち親子はカスり傷ひとつ受けずに助かりました」(212ページ)
そして2年前に父親がたおれて入院したことによって、「普通の人とはちがう」ということを思い出させ、いつか自分も発病するかもしれないと考えて生きている。
そのため、漫画家の求愛も受け入れられず、東京から離れることを決意した内容の手紙を送る。
というだけの話である。
作品の末尾には感想を出版社宛に送ってほしいという文章がある。それは、驚かないとしてもそのあとである。
「送り下さった方にはこの短編の原稿の好きなページをさしあげます
1963.8 ダン(S)
とあるのが驚いた。
***
真昼
渡二十四
ガロ
青林堂
1965年9月号
「入選作品④」とある。新人作家募集で採用されたもの。5ページの短い作品である。
廃墟のなかでの暮らしぶりが描かれている。
いわゆる「原始」的な暮らしぶりである。
女は顔から肩にかけて火傷の跡がある。
そして女が呼ぶ夫は、左腕の一部を失い、左目も失っている。
しかも、火をつけようとすると、「ピカだッ!! たったすけてくれっ」(224ページ)と叫ぶ。
「もう戦争は終わったのよ!! 原爆をつくる人達もみんないなくなったのよ!」(同)
そして最後のコマには、瓦礫のなかに「東京都」という文字がある。
時は、「1977年8月」と表記される。書かれてから12年後の物語ということなのであろう。
***
なみだの折り鶴
花村えい子
なかよし
講談社
1965年10月号付録(なかよしブック)
*花村えい子には、「長崎の鐘」(なかよし、1965年)という作品もある。
「原爆の子の像の物語」と書かれている。
佐々木禎子の物語である。
ここでも医者は、「原爆病」とは決して言わず、あくまでも次のように述べる。
「診断のけっか白血病とわかりました」(230ページ)
鶴を折る話で、サダコちゃんは643羽まで折ったところで、容体が急変する。
「サダコちゃんの死をむだにしないよう…… あんなかなしいことが二どとおこらないよう、みんなのねがいをこめて、原爆の子の像はできたのでした。」(246ページ)
(このアンソロジー本には一部抜粋となっており、本来は、この「原爆の子の像」の歌を歌った扇ひろ子の物語のようである。
***
黒い雨にうたれて
中沢啓治
漫画パンチ
芳文社
1968年5月29日号
黒い雨にうたれて(中沢啓治)と西城秀樹
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11400136031.html
***
真理子
池田理代子
「池田には、広島で被爆し、原爆症に倒れる少年と、その波に複雑な思いを抱きつつ成長する少女に音楽を絡めた青春ものの貸本漫画「由紀夫くん」(正・続)もある。」(379ページ)
池田理代子が描く被爆の悲劇「真理子」(1971年)
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12111435087.html
***
原爆売ります SFサスペンス
西たけろう
週刊漫画TIMES
芳文社
1968年11月16日号
(殺人劇場、1970年、東考社、再録)
SFサスペンスとあるが、オチありきの作品である(ここではオチは書かない)。
タイトル通り、原爆を売る話である。
「いっかいのサラリーマンにすぎなかったあなたがどのようにして原子爆弾をつくったのか……それがききたいんですよ」(338ページ)
具体的には、どこで、どのように、という話を聞きたがっているのは、航空自衛隊の人。
場所は、E県屯田町、という。
屯田は、札幌市北区に実在する地名であるが、E県としており、架空のところということになる。ここに旧陸軍の秘密工場があり、そこで原爆をつくったという。
どのように、というのは、登場人物の父親(科学者)の記憶が「遺伝」したという。
もう、「~という」としか言いようのない破天荒な展開であえる。
しかし話はここからである。
最初は写真を見せただけの男は、説明を一通りしたあと、カバンから小型の原爆をとりだす。
「アメリカ ソ連 イギリス フランス 中国だって持っている人類皆殺しの悪魔の兵器ですよ!……
しかし…しかし
唯一の被爆国 平和憲法を持つ 日本人であるぼくが言うのもなんですが われわれだって……という気になるのも本当だと思いましたね」(350ページ)
そうしてカバンいっぱいの現金を受け取って立ち去る夫婦。
その際に、念のために一言自衛隊の人が言う。
「あのうこのことは…くれぐれも極秘に」(352ページ)
***
吾が母は
林静一
ガロ
青林社
1968年4月号
林はデビュー作が米国の原爆投下の責任を問うものだった(「アグマと息子と食えない魂」というタイトル)。また、自主制作アニメは原爆投下で石段に人がげ焼き付いたエピソードをもとにしたもの(「かげ」という題名)。
これは、カエルの話である。子ども(ケロ吉)は「負けカエルの子」(355ページ)とある。
父親が言うには「ケロ家を存在させるにはこの道しかなかった」(354ページ)として、何やら怪しい人物(ゴリラ殿)に連れられてゆく。
そのとき、上空から1機の飛行機がやってきて、「ピカッ ドーン」と落とされる。父は言う「大ケロ帝国万歳!」(358ページ)
すなわち、どうやら「ケロ家」とは、「日本」のことのようである。そういうえば、ゴリラ殿の帽子は星とストライプが描かれており、「米国」をイメージしているのかもしれない。
その後、ケロ吉は、ゴリラ殿の言われるがままに、頑張る。
「出来たじゃないか 自由と平和と繁栄を未来にもつ世界が……君に必要だったのはこの現実的な充実感だ」(366ページ)
どうやらその通りのようだ。
戦後の歩みを戯画化する。
ケロ吉はそれゆえ、葛藤する。
米国のおかげでここまで来たのだから、これからもともに歩むのか、それとも、自立を目指してゆくのか、葛藤する。
これはすなわち、安保問題なのであろう。
- 原水爆漫画コレクション4 残光/平凡社
![]()
- ¥3,024
- Amazon.co.jp
↧
↧
![]()
読んだ作品
ゴジラ
杉浦茂
少年クラブ
講談社
1955年3月号別冊付録
(再掲 原水爆漫画コレクション4 残光 平凡社 2015.07.24)
***
映画の換骨奪取版漫画である。
大まかなストーリーは映画に準じていながら、シリアスさを抜き去っている。
シニカルなのか、単なるほのぼのなのか、うまく判別はつかない。
ゴジラはここでは、「怒り」や「悲しみ」を表象していない。
善良な一般市民や科学者には、やさしさがあるように思われる。
場合によっては、島の人たちに見つかりたいという願望さえある(37ページ)。
しかし、島民が見つけても、何もしないとそのまま去ってしまう。
「しまの人たちがゴジラにたいしてなにもていこうをしなかったためかゴジラはほどなく海へさりました」(40ページ)
しかしその後、「かもつ船の栄光丸、備後丸あいついてゴジラにおそわれ」(46ページ)ている。
山根博士は、基本的には、純粋に科学的好奇心により、ゴジラを殺すことには反対であったが、それだけではなく、どことなく、ゴジラに愛着があるそぶりをみせている。
「わしはゴジラのころされるところをみるのはつらい」(55ページ)
ところが、東京に上陸したゴジラはその後、暴れまくり多くの人の命を奪った。
そのためか山根博士も、もうゴジラをかばうことなく、芹沢博士の発明した兵器を使うことを勧める。
映画では芹沢博士が自らゴジラに向かってゆくが、こちら漫画では、新吉が潜ってゴジラの近くに仕掛けて逃げている。
興味深いのは、最後のセリフである。
「怪獣ゴジラはとうとう化学のちからでこの世からきえさりました」(68ページ)
なぜ「科学」ではなく「化学」なのか気になるところである。
***
杉浦にはほかにも核関連作品がある。
怪星ガイガー
杉浦茂
漫画王
秋田書店
1965年1月号別冊附録
(のちに改題一部改稿されて「0人間」杉浦茂傑作漫画全集 第6巻、集英社、1968年に収録される)
(一部をここで読むことができる)
新しい星を発見した人(ロケットボーイとしょうねんはかせ)がいると勝手に記者たちが「ガーガー」と集まって騒ぎ、それを「ガイガー」と誤認して、名づけられた。
アンパン放射能
杉浦茂
漫画王
秋田書店
1965年1月号~1966年8月号
放射能を研究する3人組と博士は「いろんな種類の放射能」をスポイトに入れて持っており、 その放射能を「チュッ」とかけて、アンパンを大きくしたり、大きいものを小さくしたり、ミイラや死人を生き返らせたり、体を動かなくさせたりする。
大あばれゴジラ
少年少女おもしろブック集英社
1965年6月号附録、
映画「ゴジラの逆襲」をもとにした作品
- 杉浦茂マンガ館 (第3巻)/筑摩書房
![]()
- ¥3,024
- Amazon.co.jp
↧
↧
January 10, 2016, 4:40 am
![]()
読んだ本
〈動物のいのち〉と哲学
コーラ・ダイアモンド、スタンリー・カヴェル、ジョン・マクダウェル、イアン・ハッキング、ケアリー・ウルフ
中川雄一訳
春秋社
2010年7月
Philosophy and Animal Life
Stanley Cavell, Cora Diamond, John McDowell, Ian Hacking, and Cary Wolfe
2008.06
ひとこと感想
訳者まえがきでこれまでの北米における動物と倫理についての探究の系譜を知ることができた。内容はかなり難しく、専門家どうしの議論なので、関連文献をしっかりと読んでいないと理解できない。
***
著者たちは北米の、主に哲学、文学の研究者であり、ここで討論されている内容も、著者の一人であるダイアモンドの論考をもとにしている。そのため、非常に小さなコップの中で議論を戦わせているような印象を受ける。
言い換えれば、とても読みにくい。
ただし、訳者がそうした難点を補おうと「訳者まえがき」を用意し、このコップに入るための導線を用意してくれている。
***
動物と倫理についての探究の系譜
1975年 動物の解放 ピーター・シンガー
人間以外の動物でも、痛みを感じる生きものには道徳的な配慮が必要であると主張した。主差別をなくすこと、そして、動物への「福祉」に主眼がある。
1977年 動物の道徳的地位 スティーヴン・クラーク
不必要な苦しみを与えないという原則からするとこれまでの動物の扱いはすべて正当化できないと主張。
1978年 肉を食べることと人を食べること コーラ・ダイアモンド
シンガーやリーガンの菜食主義や動物の権利の主張の議論の仕方を批判。
1983年 動物の権利擁護論 トム・リーガン
人間は目的として扱われるべきで、手段として扱ってはならないというカントの考えを動物に拡張し、動物の「権利」を提唱した。
1985年 生き方について哲学は何が言えるか バーナード・ウィリアムズ
苦痛を与えないということと権利は簡単には結び付けられない、カントの論議を持ち出してもそれと肉食とは矛盾するものではない、など、種差別を論拠にして動物の権利を主張する問題点を提起。
ここまでは北米に限定した論議だったが、1990年代には政治的、法律的な論争へと広がっていった。
1991年 反動物解放論 マイケル・リーヒー
動物は言語を欠いているから、意図をもったり、理由のある行為をしたりできないから、配慮しなくてもよいと主張した。
1993年 大型類人猿の権利宣言 スティーヴン・クラーク、ジェームズ・レイチェルズほか
類人猿を法的人格として主張。
1997、1998年 動物のいのち ジョン・マックスウェル・クッツエー (タナー記念講演、1回目:哲学者と動物、第2回目:詩人と動物)
2002年 動物の権利を保障する議決 ドイツ連邦議会
***
「功利」主義を本書では「公利」主義と訳している。このことはとても重要なことだ。
教科書的な「功利」主義の説明はいつも「最大多数の最大幸福」を説き、それは量や質によって決まる、といった内容で、非常に「打算」的な思想として扱われている。
だがここで問われている「動物のいのち」においては、事情が異なってくる。
ジェレミー・ベンサムが主張したことは、言語を使うことができる、できない、理性を働かせている、いない、といった区別ではなく、「苦しむことができる、できない」という区別を根拠にして「倫理」の問題を設定しようというものであった。
そして「苦しむことができる」ということは「言語」と「理性」の場合と根本的に異なることがある。それは、「受動性」である。
「苦しむことができる」というのは「能力」や「属性」として積極的に保有しているものではない。
むしろ、能力がないこと、何もできないこと、いつか死すべき運命にあること、といった受動的なものに由来している。
それゆえ、積極的に「動物の権利」や「人格」の認可といった、積極的な主張は、大いなる違和感を生み出す。
もっと繊細な問題なのである。
少なくとも言えることは、こうである。自分たちが苦しんでいると思う生きものに対して、そのままではいけないのではないか、と疑問を呈する必要があるが、かといってすぐさま、何かを変えるということは困難であり、冷静に言えば、長期間にわたって変えてゆくべきものとして認識することである。
そしてもう一つ、こちらは、端的に哲学の問題であるが、これまでの哲学が「人間」を「主体」とみなしてきたこと(また、同時に、「男」を「主体」とみなしてきたこと)、この前提をとりやめる議論を行うべきだということである。
こちらは先に述べたような、現実社会における実践的な改変とは異なって、もっと積極的に議論すべきであり、かつ、これまでの前提は打ち壊されなければならない。
それはそうと、ここで問われている問題は、決して「動物」にかかわる議論においてのみ発せられるものではない。
クジラを食べる人間がいることが、許せない人間がいる、のと同じように、低線量放射線が健康に影響がない、と主張することが許せない人間がいる。
私が知るかぎり、近年におけるこうした問いのなかで、唯一、「反対」を許されないものがあった。
それは「原水爆禁止」である。その根底には「人類の滅亡」や「地球の滅亡」が示唆されているからであろう。少なくとも「戦争」に対しては一定程度以上の留保がある一方で、原水爆の利用が一度はじまると止めることができないというシステムのため、だれもそれを積極的に認めることはできないのである。
しかし、動物への倫理的態度は、きわめて複雑である。
肉食、畜産、毛皮、動物実験、虐待、その他、さまざまな実態があり、それに応じて、さまざまな態度や感情がある。
一度これらのいずれかに「可哀そう」と思った瞬間から、人は、そこから目を背けることができなくなる。
言い訳としては「仕方がない」「みんなそうして生きてきた」「他の動物も殺し合い、食べている」といったような形で、こうした不安をかき消そうとする。
かつての参照枠はよくもわるくも「西洋近代」であり「人間主義」だった。
しっかりとした純拠点があったから、「正義」も「倫理」も明確だった。
だが今問われているのは、その「西洋近代」であり「人間主義」である。
少なくとも絶対性、普遍性、永遠性を前提として論議することはできない。
かといって、多数決をとって決められるようなものでもない。
しいて言えば、熟議民主主義が提示しているように、時間をかけて議論を重ねること、それしか今、できうることがないように思われる。
しかし繰り返すが、本書は、少なくともクッツエの本を読んでいたり、この手の哲学や文学における論争を十分に知っていないかぎりは、あまり多くのことが得られるとは思えない非常に専門的な内容であった。
そう、ハッキングが書いているように「ここに収録された三つの論考のどれひとつとして動物を論じてはいない」(195ページ)のである。
くりかえすが、「彼ら」と「私(たち)」とはまったく異なる形で「動物のいのち」を問うことになったことも、忘れてはならないであろう。
「フクシマ」が「動物のいのち」を人為的に放置するばかりか、積極的に、餓死もしくは薬殺させたことに、私(たち)は、心を痛めずにはおれなかった。
少なくとも、もしもこうした最悪の事態がふたたび起こったときに、同じように、動物が打ち捨てられてしまうのであれば、まさしく「人間(性)」は「終焉」を迎えてしまうであろう。
このことは、少なくとも「真実」だと、私は、思うのである。その点から、この「動物のいのち」の議論をはじめるほかない。
- “動物のいのち”と哲学/春秋社
![]()
- ¥3,024
- Amazon.co.jp
↧
January 11, 2016, 5:09 am
![]()
読んだ本
日本原爆論大系 第5巻 核兵器禁止への道 II
坂本義和、庄野直美 監修
岩垂弘 編集・解説
日本図書センター
1999.06
ひとこと感想
第4巻に引き続く原水爆禁止運動に関する文献と、核兵器拡散に関する文献が収められている。1960年代後半以降、世界は多極化し、核のとらえかたも多様になり、核抑止力論、核軍縮論など、さまぎま意見が現れる。
***
第1章 国連軍縮特別総会に向けて
国連軍縮特別総会(SSD)に向けて、原水禁と原水協と、さらに市民団体は、1977年に統一運動体となる。
SSDは第1回が1978年に行われ、第2回は1982年、このときの反核の総署名数は8,000万人にのぼった。
1978年5月30日
国連軍縮特別総会における園田直外務大臣の演説
園田直
月刊国連
日本国際連合協会
1978年7月号
1978年5月22日
国連軍縮特別総会への日本国民(NGO)代表団の要請
国連に核兵器完全禁止を要請する日本国民(NGO)代表団
国連に核兵器完全禁止を要請する日本国民(NGO)代表団。行動の記録
国連に核兵器完全禁止を要請する日本国民(NGO)代表団派遣連絡調整会議
1978.07
NGOデー(1978年6月12日)
国連軍縮特別総会における演説
田中里子(日本国民(NGO)代表団事務局長)
国連に核兵器完全禁止を要請する日本国民(NGO)代表団。行動の記録
国連に核兵器完全禁止を要請する日本国民(NGO)代表団派遣連絡調整会議
1978.07
1982年6月9日
第2回国連軍縮特別総会における鈴木善幸内閣総理大臣の演説
鈴木善幸
月刊国連
日本国際連合協会
1982年7月号
第2回国連軍縮特別総会への要請
第2回国連軍縮特別そうかに核兵器完全禁止と軍縮を要請する国民運動推進連絡会議
地球を覆う草の根のうねり SSDII行動日本代表団の記録 1982年6月4日~6月24日
第2回国連軍縮特別総会に核兵器完全禁止と軍縮に要請する日本国民運動推進連絡会議編 発行
国連軍縮特別総会にむけて、核兵器廃絶・・軍縮推進の運動が提唱される!!
新日本宗教団体連合会
新宗連結成30周年中央集会(プレスリリース)
新日本宗教団体連合会
1982.02.07
第2回国連軍縮特別総会に、向けた合意書
公明党、民社党、新自由クラブ、社会民主連合、全日本藤堂総同盟
1982.02.12
第2回国連軍縮特別総会に核兵器完全禁止と軍縮を要請する国民署名
全日本仏教青年会
(署名用紙)
1982.03
(事務局は増上寺)
反核・平和へのアピール
5.30反核・平和を願うキリスト者合同祈禱集会 参加者一同
1982.05.30
反核・軍縮宣言集 1982年の証言
服部学 監修
国際教育フォーラム 編
新時代社
1983.05.10
いかにして軍縮を実現するか〈第2回国連軍縮総会への提言〉
坂本義和
抄出 軍縮の政治学 岩波新書 1982.9.20
反核の論理――運動のなかから
吉川勇一
抄出 反核のっ論理――欧米・第三世界・日本 吉川勇一他 柘植書房 1982.07.15
若者の核イメージ 新右翼・民族派の核意識
穂坂久仁雄
現代の眼
1982年5月号
現代評論社
署名・意見書採択は慎重に 核兵器及び軍縮会議に関するわが党の態度(当本部による各県連への通達)
自由民主党
自由新報
1982年3月30日
自由民主党
反核運動のゆがみを正す"二つのこと"
猪木正道
正論
1982年6月号
産経新聞社
新聞がつくる反核運動
高根正昭
諸君!
1982年7月号
文藝春秋
***
第2章 文学者の反核声明をめぐって
SSDIIに向けてもっとも影響を与えたのが文学者の反核声明だった。
核状況のカナリア理論
大江健三郎
世界 432号
1981年11月号
岩波書店
核戦争の危機を訴える文学者の声明
核戦争の危機を訴える文学者の声明 署名書
核戦争の危機を訴える文学者の声明 全記録
1982年8月1日
伊藤成彦、小田実、小中陽太郎、中野幸次編
核戦争の危機を訴える文学者の声明 署名者
署名についてのお願い
核戦争の危機を訴える文学者の声明 呼びかけ人
核戦争の危機を訴える文学者の声明 全記録
1982年8月1日
伊藤成彦、小田実、小中陽太郎、中野幸次編
核戦争の危機を訴える文学者の声明 署名者
言わなければならぬ時にはひとりででも物を言う
中野孝次
朝日新聞
1982年2月2日夕刊
朝日新聞社
「文学者反核声明」をめぐって
尾花珠樹
抄出 反核・軍縮宣言集 1982年の証言
1983年5月10日
国際教育フォーラム編
新時代社
文学者の反核声明に対して、吉本以外の反対意見について、まとめている。絓秀実は「反核ファシズム」を理由に、中上健一は「人間中心主義」を理由に、さらに柄谷行人は彼らが言うべきことをいってくれたことを理由に反対した。
ほか、原発についてふれていないことや、目的が不明確など、多方面から批判が続出したが、それもひとえにこの署名運動が当初の予想をこえて広くいきわたったからである。
「反核」運動の思想批判
吉本隆明
抄出 「反核」異論
1982年12月20日
深夜叢書者
さあ反核文学者、どっからでも来い
小堀桂一郎
正論
1982年6月号
産経新聞社
***
第3章 核絶対否定か核兵器絶対否定か
かろうじてではあるものの、「原水爆禁止」すなわち「核兵器廃絶」については、運動体も統一感があったものの、「原子力の平和利用」もしくは「原発」に対する態度は、大きな食い違いを見せた。
原水禁は「核と人類は共存できない」を前提とし、原発についても反対の立場をとっていたのに対して、原水協は原発ならびに放射線の利用そのものについては肯定されたうえで、利用の仕方に対して厳格であるべきだとした。
被曝29周年原水爆禁止世界大会宣言
被曝29周年原水爆禁止世界大会実行委員会
被曝29周年原水爆禁止世界大会報告決定集
1974年9月1日
被曝29周年原水爆禁止世界大会実行委員会
被曝31周年原水爆禁止世界大会国際会議主催者代表演説
森滝市郎
被曝31周年原水爆禁止世界大会報告決定集
1976年8月30日
被曝31周年原水爆禁止世界大会実行委員会
原水禁運動の内面転換
池山重朗
抄出 原爆・原発
1978年7月1日
現代の理論社
現代における原子力利用の問題 ユーゴスラビア国際理論円卓会議「社会主義、科学・技術、開発戦略」での報告
浅見善吉
前衛 472号
1981年12月1日
日本共産党中央委員会
三科学者、大いに語る 核兵器と原子力平和利用について
三宅泰雄、安斎育郎、木谷勲 前衛編集部(司会)
前衛 416号
1977年10月1日
日本共産党中央委員会
***
第4章 原水爆禁止運動は再分裂へ
1977年に統一した運動体として活動を行ったものの、1984年より溝が深まり、1986年には再分裂する。
原水禁運動はどうあるべきか
西谷豊
月刊社会党 342号
1984年10月1日
日本社会党
共産党の介入の中で「原水協」はどうなるか 吉田嘉清代表理事に聞く
朝日ジャーナル 記事
1984年7月20日号
朝日新聞社
"内紛"原水協は草の根の期待にこたえられるか インタビュー 赤松宏一事務局長に聞く
朝日ジャーナル 記事
1084年8月10日号
朝日新聞社
政党は頭を冷やしてください "紛糾"原水禁世界大会国際会議を振り返る 田中里子地婦連事務局長に聞く
朝日ジャーナル 記事
1984年7月17-24日号
朝日新聞社
原水禁世界大会の成功を
社会新報 主張
1984年7月31日
日本社会党
歴史の偽造と国際的視野の欠如 原水禁運動での「社会新報」主張
丸山和彦
赤旗
1984年8月11日
日本共産党中央委員会
***
第5章 核抑止か核兵器廃絶か
核兵器政策に関する評論や論争。
核軍縮についての基本的な考え方 パグウォッシュ運動の方向づけ
湯川秀樹
抄出 核軍縮への新しい構想
1977年8月2日
湯川秀樹、朝永振一郎、豊田利幸編
岩波書店
パグウォッシュ会議の歩みと抑止論
朝永振一郎
抄出 核軍縮への新しい構想
1977年8月2日
湯川秀樹、朝永振一郎、豊田利幸編
岩波書店
第6章 核不拡散条約をめぐって
核兵器使用禁止協定締結促進こそ急務
赤旗 主張
1968年6月18日
日本共産党中央委員会
核開発と20世紀 核エネルギー大衆化の時代は既に始まっている
倉前義男
自由
1967年7月号
自由社
核拡散防止条約の意味するもの
小谷秀二郎
抄出 国民講座 日本の安全保障 5 核時代と日本の核政策
1968年5月20日
原書房
核拡防条約体制と日本 この条約で米ソは不戦を約束した
八木沢三夫
世界 354号
1975年5月1日
岩波書店
第7章 核の傘・非核三原則をめぐって
核時代の集団防衛 がロア将軍の核戦略理論jに対する疑問
佐伯喜一
自由
1964年5月号
自由社
核拡散と日本の核保有
村松剛
抄出 核なき日本の安全保障
1965年6月1日
時事問題研究所 編・発行
日本の核武装について
岸田純之助
国防
1967年7月号
安全保障調査会編
朝雲新聞社
純技術論からも日本は核武装できぬ
今井隆吉
朝日ジャーナル
1975年9月15日号 臨時増刊
朝日新聞社
非核三原則に関する佐藤栄作内閣総理大臣の国会答弁
質問者 松野頼三 答弁者 佐藤栄作
抄出 第57回国会衆議院予算委員会議録第2号
1967年12月11日
わが国の核政策は四本の柱 衆議院本会議における佐藤栄作内閣総理大臣の答弁
答弁者 佐藤栄作
抄出 第57回国会衆議院予算委員会議録第3号
1968年1月30日
核兵器廃絶の理念にかえろう
世界平和アピール七人委員会
世界平和アピール七人委員会新聞発表
1967年12月29日
日本へも米の核積載艦 退役海軍少将が証言 米議会委公表
朝日新聞 記事 1974年10月7日
朝日新聞社
核兵器をわが国に持ち込ませない 衆議院外務委員会における木村俊夫外務大臣の答弁
質問者 水野清 答弁者 木村俊夫
抄出 第73回国会衆議院外務委員会議録第4号(閉会中審査)
1974年10月14日
衆議院
米、核持ち込み寄港 60年代から「日本政府も承知」
毎日新聞 記事
1981年5月18日
毎日新聞社
ライシャワー発言に関する政府答弁 参議院外務委員会における質疑応答
質疑者 松前達郎 答弁者 浅尾新一郎、園田直
抄出 第94回国会参議院外務委員会会議録第9号
1981年5月21日
参議院
日本が持つべき防衛力 核の選択
軍事科学研究会
抄出 諸君!
1980年7月号
文藝春秋
戒律としての「唯一被爆体験」
佐瀬昌盛
諸君!
1984年9月号
文藝春秋
核の論理 日本人の"核アレルギー症"を解剖する
勝田吉太郎
正論
1981年8月号
産経新聞社
非核三原則の立法化を 公開シンポジウム(1989年7月31日)
核軍縮を求める二十二人委員会
非核三原則の立法化を
1989年9月20日
岩波書店
非核法(いわゆる非核三原則立法化)の要綱
核軍縮を求める22人委員会
核軍縮を求める22人委員会作成資料
1990年6月
非核法制定を訴える
梅林宏道
今こそ非核法を!
1995年3月15日
今こそ非核法を!運動
「核の傘」は日本の安全保障にプラスにならない
金子熊夫
世界週報
1998年8月18-25日号
時事通信社
- 日本原爆論大系 (第5巻)/日本図書センター
![]()
- ¥8,640
- Amazon.co.jp
↧
January 12, 2016, 4:23 am
![]()
観た芝居
11人の少年
北村想 作
柄本明 演出
劇団乾電池
下北沢 ザ・スズナリ
2016年1月6日~11日
CAST
スモモ 中村真綾 (盲目の少女)
青木 前田亮輔 (清掃局、演劇部)
別保 西本竜樹 (清掃局課長、演劇部部長)
片岡 吉橋航也 (清掃局 先輩、演劇部)
小林 飯塚三の介 (清掃局、演劇部、父を失っている)
スガコ 麻生絵里子 (別保の妻、演劇心がある)
太郎吉 池田智美 (別保の子ども、妙に世間のことを知っている)
太田 田中洋之助 (売れない役者から大スターに)
ヒオイ 吉川靖子 (保険外交員A)
トモズミ 松沢真祐美 (保険外交員B)
雄次郎 岡部尚 (スモモの兄と称するヒモ)
ヘタムラ 杉山恵一 (ヘタムラソウ、役者もする劇作家)
ひとこと感想
エンデの「モモ」を下敷きにした、昭和的で雑煮的でコラージュ的作品。芝居以上に芝居じみており、殺陣あり、演歌あり、ダンスあり、豆の皮むきあり。難解ではない作品ほど難解なものはないのか、私には難しすぎた。
***
舞台は、「ガード下」が中心。ほか、「別保の家」。ほか、「青木の空想世界」。
この作品において重要なのは、「ガード下」や「別保の家」における現実世界と、「青木の空想世界」の転換にあることに、今気づいた。
つまり本作の大半は、青木がスモモに語る「出鱈目」な物語なのである。
この転換に、今ひとつ、気づくことができなかった。
観客の視点から言うと、私たちは、舞台上の役者が演じているもの(清掃局役人としてのサラリーマン生活)を現実として受け止めるとともに、その彼らが演じる青木の物語世界を空想として受け止めるという、二つの世界の切り替えを行わなければならない。
青木の空想世界は、あまりにも遠い世界であり、私にはその世界に溶け込むことができなかった。
いや、「遠い世界」というのは不適切だ。「誰もが」少年時代に思い描くであろう、わくわくした冒険のイメージのようなものとしてすんなりと入り込めればよかったのだ、と思う。だが、そうではなかったということなのだ。
おそらく本作を観て楽しめたか否かは、こうした、幼少時代の「ファンタジー」への共感が分岐点になっていたように思う。
しかも、もう一点、これはこの劇団の個性なのであろうか、登場人物どうしのやりとりに、生々しさというものを回避する傾向があると思う。つまり、言葉や視線を交わしあっている感じが極めて希薄なのである。
12人のモノローグを並行して聞かされる感じである。12人の個性をそれぞれ観客にぶつけている感じである。
みな、それぞれの存在を訴えかけることに熱意を燃やしている。それは、わかる。
だが、観客としての私としては、それだけでなく、相互の駆け引きや共感、反発がにじみ出るほうが、面白いように思うが、どうなのであろうか。
それはさておき、本作が下敷きにしている(パロディー化している?)ミヒャエル・エンデの「モモ」であった。
きわめて構図はシンプルである。本作と人物の関係は次のとおりと思われる。
スモモ ― モモ(少女)
別保 ― ベッポ(老人、道路清掃夫)
青木 ― ジジ(?)(若者、観光案内人)、カシオペイア(?)(亀、時間案内人)
保険外交員 ― 時間貯蓄銀行の外交員(?)、ビビガール(?)
清掃局役人たち ― 灰色の男たち
「モモ」では「灰色の男たち」は「時間貯蓄銀行の外交員」と同じことであるが、本作ではこの二つのイメージを切り離したと考えられる。
また、保険外交員の二人は、ビビガール的なキャラクターでもある。
青木は、一方では、ジジ的な役であるようにも思うが、亀のカシオペイアに近い役割を担っているはずである。
時間どろぼうたちから時間を奪い返しに行くときに、カシオペイアが大切なパートナーであったからである。
やや強引にあててみると、「父」を亡くした小林が、「ジジ」の役回りであったのかもしれない。
舞台に最初に「スーパーマン」のように空を飛べると願って登場するとともに、自らの命を捨てて、「天使」になっても浮かばれない小林は、ジジのような弱さ、やさしさを感じさせるからである。
しかしそれほど彼に光はあたっていなかったので、うまく説明ができない。小林がなぜ父親に固執しているのか、見ている側には、よく分からないまま終わってしまった。
一方、大きく役が違ってみえたのが、ベッポ=別保である。
別保は、ベッポほど思慮深い人間には見えず、ただの気が弱くうだつが上がらない中年オヤジにすぎないような存在であった。
逆に、別保の妻スガコは、現実世界において二役を演じており、一人だけ、独特な立ち位置にいる。
そんな妻がいるのであれば別保は、どうして、わざわざ演劇部をつくっているのだろうか。
二人の世界は、こうなっている。
実際 虚構
別保 役人 演劇部員
スガコ 良妻 悪妻
この二者の関係と、実際と虚構との関係について、もう一歩踏みこむと、もしかすると、受け止め方も変わったのかもしれない(スガコの役の方の個性は強烈でした)。
ほか、青木が、登場する身近な人間たちそれぞれに空想の役割を与えてゆくシーンは、本来はとても楽しいところなのであろう、ということは想像できる。
しかし、スモモに悲惨な役をやらせることが、現実の世界におけるスモモへのほのかな恋心(もしくは同情心)と矛盾し、すっきりしない。
しかも、その空想の世界は、青木の幼児体験と呼べるものであり、子どものころ近所の仲間と一緒に空き地で遊んだ記憶をベースにしているわけであるから、そのような「子どもの世界」と、スモモのに対する性的な意味づけとが、非常にギャップを感じた。
もっとスモモには、違った役を与えるべきではなかったのか。
あのような役を与えている時点で、青木の底の浅さを感じてしまうのであった。
というのもやはり、世界的にみても20世紀文学の代表的な作品ともいえる「モモ」をパロディー化した時点で、作品への注文は厳しくなってしまうのも、仕方がないとも言えよう。
あえて言えば、本作を観た一方で「モモ」を読んでいない方はぜひとも「モモ」を読んでみてほしいと願うばかりである。
- 十一人の少年/白水社
![]()
- ¥1,944
- Amazon.co.jp
- モモ (岩波少年文庫(127))/岩波書店
![]()
- ¥864
- Amazon.co.jp
↧
January 13, 2016, 4:30 am
![]()
なぜか公園施設にビートルズのイラストが描かれている
読んだ作品
宇宙物語 傑作面白漫画24
安田卓也
トモブックス
1954年10月20日
(2013年10月、青山ライフ出版が復刊、読んだのは、原水爆漫画コレクション4 残光 平凡社 2015.07.24)
ひとこと感想
上手いというわけではないが、妙に味のある絵柄である。漫画で核兵器をなくすソリューションとして火星人を登場させ、かつ、空飛ぶ円盤、雪男といったトピックの謎も解き明かし、のみならず、原爆被災者の治癒も含みこんでいる破天荒な内容。
安田卓也は後にCM制作会社に勤めたあと、キャラクターデザイン、広告マンがなどを手掛けた。代表作は三菱重工株式会社のキャラクターであるビーバー君。本作が漫画家デビュー作。
***
目次
銀嶺の果て
君の名は
始めか終りか
機動部隊
地球最后の日
宇宙戦争
地上(ここ)より永遠(とわ)に
末尾には、1954年5月に描かれたことが記されている。
***
時代は「195x年」とある。
水爆実験が行われ、死の灰が地球をとりまいている一方で、ヒマラヤを目指すオリンピックがあったことで、以下、空想の物語を描く。
ヒマラヤの奥地に火星人がいるという設定である。空飛ぶ円盤はここから発進している。雪男は人間が近づかないようにと用意されたものである。
なぜ火星人がここにいるのかと言えば、テクノロジーをいかに発達させても、そもそもの火星が気温その他環境において住み心地が悪いという結論に至り、地球への移住を考える。
しかしその頃の地球は「水爆時代」であり、不安定であるから、移住に躊躇する。
そんなさなか、新たな発見がある。
「ストロンチウム」「オモテニュム」「ウラニュム」これらがあると火星は助かるというのである。
「この石は高級原子核をもつ物質でその放射能は自然の力を左右できる」(294ページ)
この物質があるのが地球であり、地球に移住せずともこの物質を手に入れればよいとして、火星人は地球に向かう。
火星人のなかでも対立が起こり、地球を征服する意向をもつ者がリーダーに逆らい暴走する。
その流れのなかで、リーダーたちは、T大学の病院にいる「原子病の人達」(315ページ)を火星人は見つけ、「ヒマラヤの石」を使って「病気」を治すというエピソードもある。
だが、深刻なのは反逆者たちが、世界中の「原爆基地」を攻撃しはじめたことである。
その結果「原爆、水爆が残らず爆発」(334ページ)する。
「そのすさまじさときたら、アメリカ大陸を吹き飛ばさんばかり…そして恐るべき放射能を含んだ爆風がアメリカ中に広がっていった」(334ページ)
こうなると「人類滅亡」なのではないか、と思われるが、どうもそうではない。街中はそれど破壊されているようには見えないのである。
しかもそのあとリーダーたちは、「原爆放射能を0にできる」(335ページ)ヒマラヤの石の粉末をばらまく。
しかも反逆者たちは、世界中のあらゆる軍事都市、「火薬庫から軍艦に至るまでおよそ兵器と名のつくもの」(338ページ)を破壊しつくす。
結果、反逆は終わる。
「円盤さわぎがあってからはやひと月の日」(368ページ)にすでに街は復興している。
幸い、反逆者たちによって地球上の兵器がなくなってしまっているため、「平和」が訪れた、としている。
そして最後の課題はヒマラヤにあった物質であるが、これも近づけないようにして、ハッピーエンドとなる。
- 宇宙物語 (傑作面白漫画)/青山ライフ出版
![]()
- ¥2,160
- Amazon.co.jp
- 原水爆漫画コレクション4 残光/平凡社
![]()
- ¥3,024
- Amazon.co.jp
↧
↧
January 14, 2016, 5:07 am
読んだ本
核抑止戦略の歴史と理論
山田浩
法律文化社
1979.11
ひとこと感想
著者は1960年代頃より、日米関係論を中心とした政治史の研究を行ってきた。そのなかでも特に焦点あてたのが日米安保であり、「日本の対米従属」の実態を明らかにしようとしてきた。そして米国の国防政策の中心にあるのが核抑止戦略であり、本書の主題である。
***
本書は、TMI事故から約半年後に刊行されている。にもかかわらず、原発(事故)には一切ふれられていない。
専門書であるとはいえ、現在の時点からみれば、彼の研究テーマである日米関係論においても、核抑止戦略においても、原発もしくは「平和のための原子力」は大きな位置を占めると思われるが、ここではそういう扱いはされていない。
確かに、核抑止戦略においては、原発やウラン濃縮などよりも、その前に、広島、長崎への原爆投下という事実が、まず第一にとりあげられることは、当然のことであるだろう。
その威力をまざまざと世界に伝えられたからこそ、「核抑止戦略」は成立している。
***
目次
1 核抑止戦略への胎動
戦後冷戦と核軍拡競争の開始
2 核抑止戦略の確立
朝鮮戦争とニュー・ルック戦略
3 核抑止戦略の再編成
マクナマラ戦略の展開
4 核抑止戦略の現状と将来
ニクソンキッシンジャー戦略
5 核抑止戦略の批判と克服
***
全体を細かく読みとくことはここではできない。特に印象深い点だけを挙げておく。
まず、米国が原爆を実際に投下するに至った経緯について、まとまった検討がなされている。
日米の問題というよりもむしろ米ソの問題、つまりは「戦後」の国際政治の力学を考慮に入れたという点が強調されている。
「ソ連を念頭におきながら、原爆独占を政治的に利用せんとした点では、原爆投下が実際に問題となった時期に限らず、原爆開発の早い段階からアメリカの態度は一貫していたといってよい。」(20ページ)
そしてそのあと、トルーマンにもこの考えは引き継がれ、さらには、実際に戦後の政治状況に大きく影響を与えていったと著者はみている。
「ヨーロッパの戦後処理(とくにポーランド)問題に加えて、アメリカの原爆独占が米ソ間の対立をさらに激化させ、ソ連による原爆開発努力が精力的にすすめられるなかで、核問題はますます戦後東西冷戦における主要テーマとなった。」(23ページ)
一部では戦後、核の国際管理の必要性が叫ばれたが、むしろ、「核」は開発競争という形での「戦争(冷戦)」を開始させたということである。
だがやはりここにはその一環としての「原発」施策については全くふれられていない。
むしろ「核兵器」「原水爆」だけが「核抑止政策」にかかわるという前提をつくりあげて、原発をそのコンテクストにかかわらなくさせていったのが、著者たちの「業績」という見方もできる。
その後の水爆実験と同様に、原発の建造や稼働もまた、ある種の「核実験」であり、それは「実験」といいながら、廃棄物を残し、事故や戦争勃発時には放射線の拡散を招くという現実的な被害を引き起こしてゆくものである。
つまり「核実験」ならびに「原発」とは、既存の戦争論や政治学の範疇とは異なって、バイオポリティクスを展開させたという視点が、本書には残念ながらない。
しかしよく考えてみれば、すでに1976年においてフーコーは、この問題を「性の歴史 第1巻」で提示している。こうした見解が当時の政治学において検討されなかったことは極めて残念である。
ただ、当時、1950年代において、朝鮮半島において、北と南が分裂し戦争に突入し、その延長線上に核戦争の恐怖が横たわっていたことは否定できない。
***
もう一点、核抑止論自体について。
核兵器を米ソ両陣営が増強していった結果、ある時点から、ひとたび戦争が起これば地球(人類? 国家?)は滅亡する、というおそれから、核兵器を持つこと自体が世界戦争を引き起こす抑止力になりうる、という考え方が、ある種の常識となった。
これは言わば、極刑が待っているから人を殺す人はなかなかいない、という考え方といっしょである。
しかし、この時代にひとたび入り込んでゆくと、朝鮮戦争のみならず、ベルリン機器、キューバ危機、そしてベトナム戦争へと続き、心休まることがない。
とりわけキューバ危機においてはケネディは核使用の一歩手前まで行ったと言われ、きわどいところで回避された。
核戦争の現実味というのは、このあたりが実質的にはピークだが、その後1980年代初頭まで大きく引きずることになる。
しかし同時にそうしたさなかに国内では、原発の導入が開始されつつあったのであるが、人びとの眼は、もっと切迫したものに向かったということなのであろうか。
だがこうした米ソの均衡を打ち破ったのは、原発(チェルノブイリ)の事故であった。
実質、ソ連は「原発」という名の核兵器を「内破」させ、自滅してしまったのである。
なお、核兵器が存在したにもかかわらず、平和が辛うじてであっても保たれてきたのはなぜか、という問いに対して著者は、「米ソ双方が合理性をもち、正常な価値判断にたってきたから」(319ページ)と答えている。
つまり「理性」があったからであって、「核兵器」があったからではない、とする。
- 核抑止戦略の歴史と理論 (1979年)/法律文化社
![]()
- ¥3,456
- Amazon.co.jp
↧
January 15, 2016, 5:00 am
![]()
庭に石が並ぶ家。何のために?
読んだ作品
ビキニ 死の灰
花乃かおる
曙出版
1954年11月
(原水爆漫画コレクション4 残光 平凡社 2015.07.24)
花乃かおるは、本作のほか『名人横綱栃錦』を(川田漫一と共著)を曙出版から同時期に発表しているが、ほか不明。
ひとこと感想
1954年3月に起こった第五福竜丸事故、そして久保山無線長が亡くなったのが9月、本作は11月に刊行されている。事故発生から久保山が亡くなるまでを、水爆の説明もからめつつ、ドキュメンタリー調(画風はそうではないが)で描いている。
***
目次
第五福竜丸
放射能マグロ
放射能騒動
ひろがりゆく死の灰
原子病
久保山無線長
雲はながれて
***
漫画のところどころに写真が挿入されている。また、後半は特に、キリスト教的な説明が多用されている。
扉表紙はライフルとガイガーカウンターを背負い、手に持つ検知器をかざしている防護服に身をくるんだ男一人。
最初に「ご父兄、愛読者のみなさんへ!!」とある。
「直接の被害者は第五福竜丸の23人ですが或る意味では日本人全部の被害ともいえると思います」(148ページ)とする。
物語はいわゆるドキュメンタリー的に進む。ほぼ事実に沿って描かれている。
帰港後の船の線量は、「最高が110ミリレントゲン(=1.1mGy/h)」(177ページ)で、安全な数値の20倍ほど。
彼らの外部被曝線量は、おおよそ、2~7Gyであり、きわめて厳しい数値、すなわち致死量にきわめて近いものであった。
これは「死の灰」をただちに除去せずに、むしろ、身体に付着させるとともに、体内にも摂取したことが大きい。
それはさておき、作品では、焼津の人たちの困惑ぶりも描かれている。
・マグロを食べてしまった人
・魚屋
・寿司屋
・蒲鉾屋
また、「水爆について」説明をするなかで注目すべきは、おそらく1945年の時点ではまだ、原爆による遅発障害の原因が放射線にあるという認識がなかったのが、1954年の時点では、「熱線や爆風ではなく」「死の灰」(192ページ)として、しっかりと把握されたことである。
ただしその名前はなぜか、「被曝」という言葉はあまり使われず、「被爆」とされ、「放射線障害」とは言われず、「原子病」と呼ばれた。
ここに登場する医者の説明も、非常に中途半端である。
「水爆の性能がわかればなおす方法もたてられるが…」(202ページ)
ここでようやく、皮膚のやけどなど表面の変化よりも、「血液の変化がおそろしいのだ。放射能のおそろしさはここにあるのだ」(206ページ)という理解に進む。
ところがこの作品では途中から「神」の対話がはじまる。
「人間の手によってつくられた文明が同じ手によってつくられた科学の力でこわされる」のに対して、「やがて神の怒りもあろう」(212ページ)としている。
「おお神よ あやまてる わられの友を ゆるしたまえ 原子病にやめる罪なき友をまもりたまえ」(231ページ)
このようにして本作は、「祈り」の書となってゆく。
とはいえ、全体的には、ドキュメンタリー色が強く、いたずらに歪曲されずに出来事を追いかけており、この時期に刊行されたものとしては、非常によくできた作品と言えるだろう。
しかも不思議なことに、作者は、ビキニ島における被害について、当時ほとんど知られていなかったにもかかわらず、注意を向けている。
「無人島のようなマーシャル群島にも土人は住んでいる」「原爆の実験で危険なので区域の外に移したがこの様子では心配だ」(167ページ)
これを語っているのは、「ビキニ島から数100マイル離れている、チゼリン島にいた米国海軍水兵長」(166ページ)である。
このような指摘は特筆されるであろう。
- 原水爆漫画コレクション4 残光/平凡社
![]()
- ¥3,024
- Amazon.co.jp
↧
January 16, 2016, 5:06 am
読んだ本
生類をめぐる政治 元禄のフォークロア
塚本学
平凡社
1983
(講談社学術文庫 2013.02)
ひとこと感想
元禄時代前後の政策、特に生類憐みの令と鉄砲改めの令と人々の暮らし(生類とのかかわり方)との結びつきを見事に描いた本。「生類」という概念から「人間」と「動物」との差異/区別の問題を再考できる。
***
学生時代に学んだ先生の御本であり、学生時代以来、久方ぶりに読み返す。当時は漠然とした読み方をしていたため、大雑把にフランスのアナール派史学や国内では網野義彦を筆頭とする歴史学×民俗学の系譜にある仕事とのみ理解していたが、今回は、「動物」と「人間」との区別(差異)をめぐる現代的な問いを考えるうえでの参照として、江戸時代(元禄)における「生類」論として必要な事項をピックアップすることにする。なお、塚本先生は2013年に亡くられている。
本書は、以下の5つの論考からなる。
農具としての鉄砲
御鷹と百姓
御犬様始末
捨子・捨牛馬
生類概念と鳥獣害 人獣交渉史断章
***農具としての鉄砲
徳川綱吉の生類憐みの令(1687年)は、今からみると、いろいろと考えさせられる政策であるが、同時に、刀狩についても同様で、綱吉のときには、鉄砲改めの令が出ている。
原子力の平和利用すなわち核兵器をもたずに原発は推進するという立場が、ある意味では戦後の国際社会において日本が選び取ったものであったわけであるが、このような姿勢は実は「戦後」にはじまったことではなかった。
よくもわるくも、日本列島においては、400年来、一般市民は「非武装」だったのである。
実際に、技術史家のジョセフ・ニーダムは次のように述べている。
「兵器を作る技術を知っていてもそれを使わないことが可能である。」(朝日新聞 1981年10月1日)
こうした「歴史」があることを、私たちは忘れてはならない。
だが同時に、米国においても、建国以来の「歴史」があり、そこにおいては「鉄砲」は重要な役割を演じてきたことも疑いがない。
だが今回はじめてと言っていいくらい積極的にオバマは「鉄砲」の所持について制限ができるようにした。
議会では全米ライフル協会の圧力が強く、法制化が困難であり、やむなく、法律を変えずに「鉄砲」を所持する際の制約を厳しくすることで、少しでも「鉄砲」による悲劇(とりわけ子どもたち)を減らしたいという意向である。
ところで話は国内に戻るが、豊臣秀吉が刀狩(1585年)を行ったことにより、少なくとも刀の所持は厳しく統制された。このときには同時に鉄砲も没収された。
だが実は、鉄砲は、農村に少なからず存在していたのである。
綱吉は1687年に諸国鉄砲改めを命じるが、これはつまり、それだけ鉄砲が普及していたことを意味する。
場合によっては(塚本は松本藩を例にしている)、藩の所持数よりも領内の農村にある数のほうが多かったりもしたのである。
しかもこの鉄砲改め、実は、以下の用途については、特に禁止されたわけではなかった。
1)用心鉄砲
物騒な地では用心のための鉄砲は所持を許す
2)月切り鉄砲
死かや猪の多い土地では空砲でおどかすことを許す(期限付き)
3)断鉄砲①
2)の無期限版
4)断鉄砲②
山間地の猟師は所持を認める
さて、細かい史実は本書を読んでいただくことにして、ところでなぜ、生類憐みの令と鉄砲改めとが、同じ時期に発令されているのであろうか。
元来、鳥獣と人間との戦いは今にはじまったことではない。
鉄砲の数が増えてきたことによって、この数を制限するために、生類憐みの令が出されたのである。
つまり、一般的に言われるような、動物愛護政策として出されたのではなく、むしろ人民武装解除を目指すものとして、鉄砲を没収しようとして、出されたと考えられるのである。
「17世紀中に発展の一途をたどったと思われる鉄砲の普及に待ったをかけたことは、ほぼ疑いない。それは、かなり長期間の歴史のなかでは、ひとと野獣との交渉史中でも、大きな意味をもつだろう。」(43ページ)
「生類憐み政策を、(中略)、ひとより鳥獣を大事にした政策といわれたりする。それは正しくないと考える。(中略)鉄砲改めの大きな役割は、村の対野獣戦力を、原則的に否定したことであった。」(51ページ)
もちろん野獣対策は必要であった。しかしそれを個々の村民が行うのではなく、幕府や藩の組織された軍隊が行うべきものとしたのである。
ところが実際には、なかなかうまくゆかない。
結局は綱吉の死後、生類憐みの政策が廃棄され、同時に鉄砲改めも撤回される。
その後、鉄砲の規制はさまざまな形で行われはしたものの、実態としては鉄砲は広く行き渡っていたようである。
***
御鷹と百姓
綱吉(5代)の少しあとに将軍となった吉宗(8代)は、鷹狩が好きだった。そのため鷹狩を復活させ、また、鳥獣保護政策をとった。
興味深いのは、鷹狩を復活することがその「対象となる諸鳥をおどす鉄砲」(91ページ)を規制することにつながることである。
鷹狩については、天皇家ならびに大名の「趣味」として長きにわたって好まれてきたのである。
「早い時期の徳川政権は、鷹によって、自然を支配し、人民を支配した。鷹狩の獲物としての鳥獣を保護し、鷹巣育成用として山野を支配し、天皇家と大名家をふくむ支配者層秩序のかなめとしての御鷹のもとに、鳥獣と、また人民とを雌伏させた。」(129-130ページ)
なお、普通の人びとにとっては、鷹狩の復活は、鳥を食べることの解禁でもあった。
***
御犬様始末
綱吉の生類憐みの令は、これまでみてきたように、鉄砲改めと連なり、自然、鳥獣、人民の、統治のテクノロジーであったことがわかる。
この内容にもう少し、ふみこんでみよう。
一般的には「犬公方」と呼ばれるほど、犬の愛護が顕著であったと伝えられているが、実際には、「将軍御成り」の先にあっては犬と猫をつなぐことをおさえるものだった。
また、犬の殺傷についてもきびしく問われた。
まずおさえておかねばらないのは、当時、犬肉食の習慣があったことである。
ただしそれはあくまでもマイナーであり、商売として食肉用の犬を飼育するとか、犬肉が商品化されるということはなかった。
その一方で、鷹狩のための餌として、そして、猟犬としても、犬は用いられもした。
そして、今思い返せば、昭和50年代前半にはまだ、野犬というよりも放し飼いの犬があたりまえにウロウロしていた。
それが次第に狂犬病対策という名のもとで、町中から消えていった。
たとえば台湾などは今でも街中に放し飼いの犬がいる姿をみることができる。
それはさておき、当時において、犬は、裕福なところでは飼い犬となっていたし、そうではないところでは、放し飼いになっていたが、いずれにせよ、人間社会のなかに密接にかかわっていたことは今と変わりがない。
しかし、放し飼いの犬は、狂犬病のほか、放置された死体(捨子、捨て病人など)を食うことも、珍しくはなかった。
おそらく、カラスが今、街頭のごみを漁り、そのために嫌がられているのと同じように、当時においては、犬がそうした意味合いがもたれた。
また、昨今では土佐犬などをけしかけて人に危害を加える事件がときおり耳にするが、これと同じようなことが「南蛮犬」「唐犬」において起こった。もちろん飼っているのは大名などである。
いずれにせよ、私たちが思うほど綱吉は「犬公方」の側面が強かったわけではないのである。
***
捨子・捨牛馬
(省略)
***
生類概念と鳥獣害 人獣交渉史断章
「生類」(しょうるい)という言葉は、今はほとんど使われない。だが16世紀頃、特に西日本では普通の言葉としてよく用いられた。
17世紀はじめのポルトガル宣教師のつくった辞書には「生類」は「動物のように感覚をもつ生物」といった説明が施されている。
ほか、9世紀には「生物」に近い意味で用いられていたり、「一切衆生の類」という言葉の言い換えという推測もある。
もちろんこの「生類」には「人間」も含まれる。「生類憐みの令」においても「捨子」「捨病人」も保護の対象であった。
だが、そうは言っても、その両者ははっきりとした区別をもっていた。
「ひとも生類であるというより、本来、ひとと感情を通じあることができる生きもの、すなわちひとを中心として、ひとに近い感覚で迎えられる諸生物が、生類概念の内容であったと理解されるべきだろう。」(246ページ)
逆に言えば、西洋的な観念である、「人間」と「動物」の区別は。、非常に新奇なものであった。
輪廻思想の面白いところは、人間のいのちとその他の生きもののいのちとが別ものではなく、連続しているということであるが、西洋の観念においては、人間のみに後生がある。
とはいえ江戸時代は仏教的観念はどちらかと言えば否定的で、儒教的な観念が力をもっていたため、西洋的観念とは別の次元から、人間と動物の区別がはっきりと述べられる機会もあった。
「人は万物の長」というのも、儒教に由来するものである。
興味深いのは、儒家でありながら民衆の観念に親近感をもっていた貝原益軒は、こうした儒教的な「人間/動物」観と民衆(仏教)的「人間-動物」観とを本来は矛盾するにもかかわらず、両立させる主張をしていたことである。
とはいえ、注意すべきなのは、生類という観念もまた、あくまでも「人間」の側からのアプローチの一亜種であることだ。
それゆえ、しばしば生類は、その含意がさまざまとなる。獣類が中心とはいえ、鳥類も含み、さらには、魚類、虫類までもが入ることもある。
さらにもう一歩踏み込んで言えば、仏教以前の、もっと古来からの農耕生活におけるかかわりから生み出された心性に根差しているという可能性もある。
それにしても、この生類憐みの令は、いわば、バイオポリティクスの先駆けともいえる。
「生類憐みの政策は、ひとをふくむ一切の生類が権力によって保護されるべきものだという考え方と、もう一面ではひとびとに生類の憐みを命ずるという考え方の二面をもっていた。」(280ページ)
- 生類をめぐる政治――元禄のフォークロア (講談社学術文庫)/講談社
![]()
- ¥1,080
- Amazon.co.jp
↧
January 17, 2016, 4:26 am
![]()
落ち葉のなかで暖をとる白猫ちゃん読んだ本
動物には心があるの? 人間と動物とはどうちがうの? 10 代の哲学さんぽ4
エリザベット・ド・フォントネ 文
オーロール・カリアス 絵
伏見操訳
岩崎書店
2011.07
Quand un animal te regarde
Élisabeth de Fontenay
avec des illustrations d'Aurore Callias
Giboulées-Gallimard jeunesse
2006
(coll. "Chouette ! penser)
ひとこと感想
理性があるかどうか、言葉が通じるかどうか、そういった観点から動物と人間との違いをみるのではなく、痛みを感じるかどうかという見地から人間は動物たちと「共感」可能である以上、無暗に痛みや苦しみを与えてはならないのではないか、と問いかけている。コンパクトだが、意外と要点はうまく抑えられている。
***
1 魂
不思議である。西洋の「アニマル」という言葉。実はそこには「人間」は含まれていないのである。
「英語やフランス語では、人間以外の生き物をあらわすのに、「animal」という言葉を使います。」(16ページ)
私にとって「動物」とは「人間」を含んでいる。
しかし一方でこのアニマルは、「魂をもつ存在」をあらわす「アニマ」から着ているのである。
「18世紀まで、あとにお話するデカルトと弟子たちをのぞき、人々は動物があるていど複雑な心や魂をもっていると考えていました。そして動物の種類によって、魂の質に上下があり、もっとも完ぺきなのは人間の魂だとしました。(18ページ)
とりわけプラトン以前のギリシア哲学においては、神-人-動物の区別ははっきりとしていない。そこには「輪廻転生」思想があったからで、アジア各地にも古くから伝わっているとする。
それに対して、一神教においては、この輪廻転生が受け入れられない。一人の「人格」は永遠に変わらないのであり、ましてや人間に生まれたり動物に生まれ変わったりすることがない。
2 言葉と理性
動物は考えていない。言葉がない。という主張がある。
確かに、簡単には人間とのコミュニケーションは容易ではない。しかし、身近にいる動物たちとある程度のコミュニケーション(場合によって乳幼児以上の)がとれることを知っている。
しかも動物たちもそれぞれ、工夫をこらして生きていることも知っている。
だが「言葉」はどうであろうか。彼らは「言葉」に相当するものを持っていないのであろうか。
人間の言語は確かに、カントがきわめつけであるように、この世に実体として存在していないもの、過去のもの、未来のもの、そうしたさまざまなものを「観念」として「理想」として「幻想」として語ることができる、という特殊な性質をもっている。
こうした能力や道具は、人間に特有のものであるようにも思われる。「心」や「理性」もそのたぐいである。
しかし動物たちもまた、生きてゆくうえで何らかのコミュニケーションをとっているであろうし、彼らと私たちのあいだでも、日々似たようなことは行われている。
ここで霊長類学において、チンパンジー「ワシュー」が人間に手話で意思を伝えたことが確認された話を紹介している。
それゆ「言葉」に関しては、動物にない、ということはできない。
しかし「理性」はどうか。というよりも「理性」とは何か。
人間と動物をはっきり分けるもの、それが「理性」であるようだ。
本書ではカントの定義をかみくだいて利用している。
「考えたり、判断したりする能力。真実とうそ、本物とにせもの、よいことと悪いことをみわける力。理性は人間だけにそなわっていると思っている人も多い」(41ページ)
3 痛み
動物たちには感情がないのか。犬や猫は、痛みに強い、とも言われている。
一方、犬の頭をなでたり、猫ののどをさすれば、とても気持ちのよい顔をすることを私達は知っている。それは「喜び」という感情ではないのか。
そして、もちろん、彼らにも、苦しみや沈黙、孤独はある。そして、喜び、楽しさ、幸福もあるだろう。
それを、動物が好きな人間の勝手な「妄想」とみなす人もいないことはない。しかしそれは人間どうしでも同じである。
痛みや苦しみを分かち合う、ということは、本質的には不可能なことを、「想像」によって埋め合わせているにすぎない。
本当のところ、相手がどのように感じているのかなど、わかるはずがない。
にもかかわらず、私たちは、それでもなお、手をさしのべたり、だきしめたり、その気持ちを受け止めようと努力したりするものなのだ。
それは、人間にたいしても、動物にたいしても、いずれにも起こりうることだ。
もちろん、過剰に、動物至上主義となり、人間以上に優遇するような主張は、行き過ぎであろう。
だがそれも、最初から「過剰」だと非難するのではなく、その「根拠」に耳を傾けることは必要である。
西洋人がイルカやクジラにどうしてそこまで思い入れを入れるのか、私たちはわからない場合が多いが、その理由は、しっかりと理解する努力をしなければならない。
4 権利
動物への権利、ということについては、今もなお、是非が大きく分かれる。
本書では、かなり積極的に肯定の意思を示している。
「法律で守られるのは人間だけというのは不公平」(64ページ)
しかしむしろ大事なのは、人間のつごうで動物に過剰な暴力や抑圧を強いることはやめるべきだ、ということである。
思うに「動物への権利」を訴えるのではなく、権利を主張できない動物たちの生存と幸福への配慮をすることが「人間の義務」である、として論ずべきである、と私は思う。
***
登場する哲学者
ピタゴラス (デュモンほか「ソクラテス以前」より)
輪廻転生を説いた。
クセノファネス
「牛だったら牛自身に似た神をこしらえて拝むことだろうと述べて、神を人間のように描く古くからの神話を批判」(26ページ)
「ある日、飼い犬をいじめている人のそばを通りかかると、ピタゴラスは胸がいっぱいになったようすで、こう言ったという。「犬をたたくのをやめなさい! その犬の体には、わたしの友人の魂が入っている。声の調子で、わかるんだ」(27ページ)
プラトン
「人間の魂は死後記憶を失ってから、また生まれ変わるという物語を残している」(11ページ)
アリストテレス
「植物をふくめ、生物すべてに魂があるが、理性をもつのは人間だけだとした。一部の動物は泥や汗などから自然に生まれてくると考えた」(11ページ)
セクストス・エンペイリコス
「宇宙全体を満たす、あるひとつの命があり、それがどこまでもしみわたって、人も神も動物も満たしている。だからわたしたちはみんなつながっているのだ」(17ページ)
ポルピュリオス
人間が各国で違う言葉を使うように、動物たちもそれぞれ異なる言葉を持っていると主張。
モンテーニュ (エセー)
「人間が自分を動物よりも重んじるのは、ばかなうぬぼれだ」「動物がわたしたちの言うことを理解できないのではない、わたしたちのほうが動物のことをわからないのだ」(38ページ)
「わたしたちのうちにある、ほかの生き物への尊敬の気持ちや義務感が、わたしたちの命も感情もある動物にだけでなく、草や木にもむすびつけるきずなになっている。人間にたいして公正であるのはもちろんだが、人はそれ以外の生き物にたいしても、親切にいつくしむべきものだなのだ。生き物とわたしたちは、たがいにつながり、そしてたがいへの義務をもtっている。」(39ページ)
デカルト
「動物がたんあんるよくできた機械にすぎないという説をとなえました。この説により、人々の生き物にたいする意識は劇的に変わりました。その結果、生きた動物を使ってさまざまな実験をすることが可能となり、科学や技術を飛躍的に進歩させたのです。」(28-29ページ)
マルブランシュ
動物には感情がなく、反応するのは物理的作用にすぎないとした。
フォントネル
動物と時計が同じ機械であるというデカルト的な考え方を批判。
ラ・フォンテーヌ(「二匹のネズミ、キツネと卵」)
「協力して卵を運ぶネズミの知恵を描いて、デカルトを批判」36ページ)
ルソー (人間不平等起源論)
「もしわたしがべつの人間をきずつけてはいけないとしたら、それはその人に理性があるからでhなあく、痛みを感じる存在だからだ。そして痛みを感じるのは、動物も人間もいっしょだ。だから動物は、人間から不当にひどいあつかいを受けない権利をもっているのである。」(67ページ)
ヘーゲル
「ミネルヴァのふくろう」の例に対して反論。つまり、哲学的な考え方は「年を重ねたすえにはじめて身につくものだ」(9ページ)というのにたいして「子どもも哲学を感じるし、きちんと理解することができる」(10ページ)と主張。
「ギリシア人の横顔を理想とし、ほかの人種や動物の顔には精神性が欠けているとした」(9ページ)
ベンサム (立法と道徳の原理序説)
「大人になった馬や犬は、生まれて一日、一週間、またはひと月の赤んぼうよりもあきらかに理性があるし、会話も成り立つ。しかしながら、もしそうでなかったとしても、いったいどんなちがいがあるというのか? 大切なのは、彼らに理性や話す能力があるかどうかではなく、彼らも苦しむかどうかということだ。」(69ページ)
ミシュレ (民衆、博物誌鳥)
「動物とは、悪い妖精によって成長をさまたげられ、ゆりかごのなかではじめて見た夢の意味さえわからない子どもなのだとは思えないだろうか?」(31ページ)
ユーゴ―
動物の権利を守るのは人間の権利を守ることの延長で、欠かせないと考えた。動物実験に反対する団体を率いて、フランス最初の動物愛護法を1850年に成立させる。
- 動物には心があるの? 人間と動物はどうちがうの? (10代の哲学さんぽ4)/岩崎書店
![]()
- ¥1,404
- Amazon.co.jp
↧
↧
January 18, 2016, 4:06 am
![]()
読んだ作品
大洪水時代
手塚治虫
おもしろブック
1955年8月号付録
集英社
のちに単行本化、鈴木出版、1962年10月
(原水爆漫画コレクション1 曙光、に収録)
ひとこと感想
ノアの箱舟をベースにした作品。大津波を世界中に引き起こす引き金をひいたのは原子力施設の爆発である。鉄腕アトムよりももっと悲観的に科学がもたらす未来の悲劇に焦点があてられている。
***
国家機密である「原子力要塞」の設計図。
海老原家の兄がこの書類を預かるところから悲劇は起こる。
海老原蛸藏 父 金持ち、優柔不断
母 兄弟喧嘩をとめようとする
鮫男 兄 濃縮ウランの研究を行う。原子力要塞の技師
鯛二 弟 兄の仕事に反対
浦島 鯛二の友人
弟はこの原子力要塞が「人を殺すきかい」(27ページ)とみなしているのにたいして兄はその必要性を訴える。
「じゃあおまえは日本がほろびてもいいのか」(36ページ)
「世界で原子力要塞をもっていないのは日本だけだぞっ」(37ページ)
「国のためをかんがえろ。原爆は、ぜったいにいるんだぞ。おまえは世間知らずだ」(37ページ)
弟は兄がもってきたこの書類を使えないようにしようとする。母は止めようとするが、二人は兄にみつかる。
国家反逆罪で死刑にされるのをおそれて父はこの二人に毒を飲ませて精神錯乱を起こさせ、殺されないようにする。
だが母は事故死してしまう。弟はそのまま精神病院でときをすごす。
そして、3年後、この要塞はすでに建造途中である。場所は、北極海上。
突如、大爆発を起こす。
なぜ北極海上だったのか。
思うに本作は「大津波」が主題であるからだ。ノアの箱舟の物語のようなことが現代社会において起こるとすれば、それは、原子力施設が原因となりうる、と連想されたと想像される。
この施設の大爆発の原因は実は、不明である。
「スパイのしわざ?」(32ページ)という問いかけはあるものの、理由は最後までわからない。
原因追究する前に、非常事態となってしまったからだ。
「とにかく秒速20メートルのはやさで大つなみがおこっとる」(同)
北極海上で起こった津波は、2日後には日本列島の東側を襲う見込み。
軍部はこうした事態を把握しながらも、緊急非常事態宣言を出さない。
「発表はしばらくまて」「かくじつな情報がはいってからだ」「暴動がおきぬよう戒厳令をしき」「あす正午、ラジオとテレビで全国にひなん命令を出そう」(33ページ)と司令長官は決定する。
しかしそのとき、「じしん」が発生する。
すなわち、本作での出来事の流れは、以下のようになっている。
原子力施設アクシデント → 大津波 → 地震
「3.11」においては、これが、逆の順序であった。
地震 → 大津波 → 原子力施設アクシデント
しかし、国民に対する対応の仕方といい、きわめて酷似していることに驚かされる。
翌日、放送が流れる。ここに、奇妙な説明がある。
「海のちかくに住んでいる人は海岸線から50キロメートルひなんしてください」(43ページ)
なぜ「50キロメートル」なのだろうか。津波であれば、まず、高いところに避難すべきである。距離はあまり関係ないように思うが、内陸に入って50キロくらいであれば津波はそこまでやってこないという推測なのであろうか。
実際には、人々は、「日光」「軽井沢」などに大勢が押し寄せる。
一方、犬は取り残されている(48 ページ)。
また、父、弟、兄ほか数名は、この騒ぎを知らずに取り残されている。
辛うじてビルの屋上に逃げるが、ビルもまた安全とは言えない。
ここで各人が船をつくる。だが、船をつかうには、だれかが一人、ビルに残って船を水面に降ろさなければならないのだった…。
***
登場人物のなかに、凶悪だった人間がいる。彼は運よく箱舟に乗ることができたのだが、その過程において、唯一、猫をみつけ、馬を助けるなど、動物へのまなざしがある。
「さあたすけてやるぜ えんりょすることはねえ 生きものどうしじゃないか」(68ページ)
- 原水爆漫画コレクション1 曙光/平凡社
![]()
- ¥3,024
- Amazon.co.jp
↧
January 19, 2016, 4:08 am
![]()
読んだ本
報道災害【原発編】 事実を伝えないメディアの大罪
上杉隆、烏賀陽弘道
幻冬舎新書
2011.07
ひとこと感想
タイトルにあるとおり本書の主題は「報道」にある。「原発」は「報道」の問題点が浮き彫りになった契機にすぎないという扱いが残念である。全編二人の対談を編集したものであるため、とても読みやすいが、反面、報道問題にとっても原発事故にとっても大事な「ファクト」の側面が弱い。
対談日
2011年04月27日
2011年04月28日
2011年05月27日
構成
巻頭によせて 畠山理仁
最悪の形で 上杉隆
負の記念碑 烏賀陽弘道
1 繰り返された悪夢 70年目の大本営
1-1 日本の報道は何のためにあるのか
1-2 3・11で露呈したこと
2 日本に民主主義はなかった
2-1 海外メディア戦いの歴史
2-2 自由報道協会の意味
2-3 ソーシャルメディアを可能にするもの、不可能にするもの
3 アメリカジャーナリズム報告2011
3-1 アメリカのジャーナリズムは劣化したか
3-2 日米メディアリテラシー比較
4 死に至る病 記者クラブシンドローム
4-1 信じられない!シリーズ
4-2 王様は裸だ
5 報道災害からいかにして身を守るか
5-1 今こそ変わらなければ次はない
5-2 多様性こそすべて
最後の希望 烏賀陽弘道
日本人が背負った課題 上杉隆
***
いかに日本の報道がダメなのかを二人が語り明かしていると思われるが、以下ではそうした箇所にはふれることなく、原発(報道)に関して彼らがどのように把握したのかにかぎって、言及することにする。
まず、彼らの「対象」は放射線や原発そのものではなく、事故への報道である。
「日本の大手メディアは自らの既得権益にのみ汲々として、結果として政府と東京電力の「犯罪行為」に加担してしまっている。」(上杉、27ページ)
つまり、大手メディアに情報を依存すると、原発事故の事態など、本当のことはわからないということになる。
「原発に関しては海外メディアもフリーも独自にたくさんの情報を持っているわけです。」(上杉、31ページ)
上杉は一例として米国などが80キロ圏内から退避勧告を出したことと日本政府の20キロ圏避難とのずれを指摘している。
これについては後日、さまざまな事実が明らかになっている。
そのことをふまえて言えば、必ずしも上杉の言うような、致命的な判断ではなかったが、当時、記者会見などで、そうした点が少しでもやりとりができれば、本当はよかったのかもしれない。
しかし本書を読んでいると、まるでフリーや海外メディアがすべて「正しい」かのように書くのも、いかがなものだろうか。
この点についてすでに論じたので、以下を参照していただきたい。
世界が見た福島原発災害
http://ameblo.jp/ohjing/entry-11022736636.html
福島第一原発事故に対して最も冷静でなかった国は?
http://ameblo.jp/ohjing/entry-12064786908.html
ただ、この本のなかでは、以下のようなエピソードには、ハッとさせられる。
「南相馬市に行って本当に呆れたのは、3月12日以降、全国紙の配達が止まっていることです。…配る人も逃げたし記者も逃げた。命がかかっている人たちに何の手も差し伸べていない。…こんなクライシスの時に、市民が「ここに留まるべきか、逃げるべきか」という生死をかけた判断をするのに役立つ情報を提供できない「報道」なんて、一体なんの存在価値があるのか。」(烏賀陽、34-35ページ)
いろいろと致命的な問題点があると思うが、とりわけこの「逃げた」というのは、本当に、〈マスメディアの存在理由」として、問われるべきものであるだろう。
一方、上杉の言うことが、少し、行き過ぎているのにも注意したい。
「放射能は見えないから大げさでいい。…大丈夫だったらあとから避難範囲を縮小すればいいんですから。」(44ページ)
「避難範囲」は大きくすればするほど、もっとも避難しなければならないところが避難しにくくなる。
それゆえ単純に「大げさでいい」とは言い切れない。
むしろ烏賀陽が言うように、「国民の命をかけた判断に役立たない報道って、何のためにあるの?」(46ページ)という問いは、重要であるだろう。
インターネットから情報が得られた人たちはよいとして、テレビや新聞に依存していた人たちは、一体、どういう心境でいたのであろうか。
テレビや新聞にほとんどふれず、もっぱらネットからの情報(海外サイトも含む)に依存していた私にはよく把握することはできないが、さぞかし大変だったことは想像に難くない。
また、そうした「信頼」の裏切りは国民に対してのみならず、上杉が言うように、海外から「日本という国全体の信頼を失墜させてしまった」(47ページ)ことにも注意を向けなければならない。
ほか、気になる点としては、放射線被曝の身体への影響で、生まれてくる子どもたちへの言及は、はたしてどうであろうか。
「日本は放射能事故、放射能による奇形の映像をテレビ・新聞では映さないんですよね。」(上杉、63ページ)
これは、「ファクト」に属する説明であるが、以下は、上杉の「解釈」である。
大手メディアが載せないのは、「悲惨すぎるから」ではなく、「放射能が危ない」というのを見せたくないからなんです。」(63ページ)
「一度に大量の放射線を被曝した人はありとあらゆる穴から血や体液が流れ出て細胞が洩れ出して死んでいく。あの悲惨な状況を日本人は知らないんです。でも、全世界の人はみんなだいたい知っているわけじゃないですか。」(64ページ)
そうだろうか。日本国内でも海外でも、知っている人もいるし、知らない人もいると思う。「みんなだいたい」という適当な表現はどうかと思う。
もちろん、上杉や烏賀陽らのおかげで、私たちは原発事故の「報道」というものが、それほど信頼性のあるものではないことは、当時、よく理解できるようになった。
Webの場合、最初からすべての情報を疑ってかかるため、権威があるかとか大手かどうかなども関係なく、たくさんの情報を集めて、それらを総合して自分なりに状況をとらえ、自分の行動を決める。
一方、大手メディアで痛感したのは、NHK以外、ほとんど原発に対する科学技術的な解説ができていなかったことである。2016年1月の今であれば仕組みや構造も把握できるが、当時は、まったく何も知らないなか、NHKの解説は、貴重なものであった。
そうした評価も、きちんとすべきであるが、ここで問題になっているのは、いかにフリージャーナリストたちが大手メディアの集まり、すなわち「記者クラブ」から締め出されているか、という意味での「報道災害」である。
本書は、すなわち、巧みに「報道災害」という言葉を使って「3.11」と重ね合わせた内容をもつように脚色しているが、あくまでも主題は「報道」にあるのである。
ただし、興味深いのは、上杉の「報道」ポリシーである。彼は非常に割り切りがよく、「ファクト」よりも「問題提起」が自分たちの役割だとしている。
それはそれで、よいと思うが、繰り返すが、原発事故や放射線被害については、単純に「問題提起」だけでは済まされない部分があるということにも気づいてほしい。
「問題提起」というと聞こえはよいが、要するに、「大変だ、大変だ」と騒ぐことではないのか。
「それで情報を引き出して世間に発表したら今度は「デマ野郎」扱いをされる。」(74ページ)
言い方は悪いが、そうしたレッテルを貼られることが不可避であろう。いや、これは非難しているのではない、むしろ「デマ野郎」と言われようが、一貫して「問題提起」を続けてほしいということである。
なお、このお二方、おそらく「ウソ」をつけないタイプであろう。いずれも憎めない。
- 報道災害【原発編】事実を伝えないメディアの大罪 (幻冬舎新書)/幻冬舎
![]()
- ¥907
- Amazon.co.jp
↧
January 20, 2016, 5:00 am
![]()
公園に置かれた怪しい形の物体。何の「まやかし」なのか?
読んだ本
まやかしの安全の国 原子力村からの告発
田辺文也
角川SSC新書
2011.11
ひとこと感想原子力村にいる著者からみても原子力の専門家は「誰も本当のことを言おうとしない」。本書を読めば、事故発生前もただなかもその後も、こういう人がもっと活用されていれば、と思わざるをえない。だが残念ながらこういった人材は「黙殺」されてきた。
田辺文也(TANABE Fumiya, 1945- )は、北海道生まれの工学研究者。原子力安全研究を長年にわたって行ってきた。特に、事故が起こった場合の物理的進展プロセスについて、そして、人間、組織、社会の安全確保における役割について。
***
事故前、著者はこれまでの自分の研究をまとめ、世に伝えようと準備をしていた。目的は、以下である。
「JCO臨界事故原因の詳細分析結果を示し、いかに重大事故が過去と現在のさまざまな複合要因が絡み合って起きるか、重大事故を防ぐための教訓は何なのかを伝える」(169ページ)
それゆえ、田辺からみると、事故への対応には、不備が数多く見られた。
その細部は後にふれるとして、総体として言えば、何よりも問題なのは、「原子力村」における「技術的能力の劣化」(同)である。
「原子力工学」を専門と名乗る研究者の「質」が下がっている、という。このことは、決して外部からはわからないことだ。
しかも「誰も本当のことを言わない」というのでは、専門家としての意味がない。
少なくともその専門領域における「本当」と思われていること(もしくはその専門領域で生きてきてその専門家が「本当」と思い続けていること)に、ともあれ、私たちは耳を傾けることしかできないからである。
またこうした指摘を内部から行うことは、とても勇気がいる。内部告発は嫌われるし、それはみな、自分に返ってくるからである。
しあkし著者の専門家としての信念は確固としている。
「巨大なシステムの安全確保に不可欠なのは、事実と論理に基づく科学的思考です。」(190ページ)
そして同時に、多様な意見や主張を認める民主主義も欠かせない、とする。
「事実と論理に基づく科学的思考」と「民主主義」――この両者が欠如しているのが「原子力村」であり、「日本社会」である、と田辺は指摘するのである。
こうした「あたりまえ」のことを田辺が強調するのは、実際にはこれが今、果たされていないからだ。
なんというおぞましい現実であろうか。
***
田辺の最大の憤りは、2011年3月12日に1号機が水素爆発を起こした直後に、一度は原子炉の炉心溶融の可能性について、東電と政府が述べ、それが報道もされたというのに、その後、「炉心の水位が真ん中ぐらいあるから安定している」という説明が2週間続き、、TVに登場する専門家たちは誰も「炉心溶融」について言及しなかった、ということである。
またこの件を田辺は朝日新聞の記者に伝えたところ、3月28日に記事となり、4月19日にはインタビュー記事が掲載されたという。
ほとんどう当時NHK以外の民放は見ておらず、また、新聞も読まないので、こうした田辺の憤りと告発については本書を読んだ時点ではじめて知った。
インターネットを中心に情報を得ていた人たちの大半は、当初より「報道」やそこにかかわる「専門家」が「ほんとうのこと」を言わないことは前提となっていた。
ときには、やや行き過ぎた内容があることも承知のうえで、事故の経緯を見守っていた。
当時は海外のサイトに、風向きを考慮した放射性物質の降下の可能性を示す天気図(SPEEDIのようなもの)も知人より知らされ、外出の適不適などをみていたが、正直、あまりの恐ろしさに当時は私もパニックに近い感覚に陥っていた。
最大の懸念は、関東も、危ないかもしれない、ということだった。もう一歩、事故が悪い方向に進めば、それは、ありえたことだったので、そうしたパニックは間違っていたなかったと固く信じるが、確かにそういうときに田辺のような専門家が適切な指摘を行っていれば、もう少し、事態に対して冷静に向き合えたのかもしれない。
***
「現場運転員の教育がもう少しきちんとなされていたら、1号機の炉心溶融が起きるまで、多少の時間稼ぎができたであろうと考えられるミスが起こっています。」(19ページ)
これは例の、非常用の復水器が動いていたにもかかわらず、平常時のマニュアルにしたがって、炉内温度の低下に伴い、止めてしまったというものだ。しかも、このことが所長にまで報告されていなかった。
これはすでに多くの人によって指摘されている。
ただし一方で無理難題だと思われるのは、以下である。
「政府も、あえて法的権限を超えてでも事故収束の指揮を執るという覚悟がなかった。」(22ページ)
東電とのやりとりをみてきたが、これは、現場の情報がないなかで、政府にそれつきつけるのは、無理であろう。
また、このこの経緯については、ほとんどTMI原発事故と同じような事態となっているのに、原子力工学の専門家たちは、両者の類似性について指摘することはなかったのも、後になって知られるようになった。
保安院
「事故発生後の対応を誤って責任を果たせなかったばかりでなく、国民を欺いてきた」(29ページ)
「この保安院が国民の税金を使って、悪さをしている。自分たちではデータの分析もやらず、すべて外部に委託して、お金だけを回している」(51ページ)
安全委員会
「助言組織ということを口実に、やはり責任を果たさなかった」(同)
なお、田辺の眼からは、以前、1999年のJCO臨界事故のときは、「原子力安全委員会はまがりなりにも機能していた」(42ページ)という。
「事故後の対応を観ていてもわかるように、日本では能天気なコメントをする御用学者的専門家ばかりが政治と手を組んで原子力を推進しているから、本当の安全技術(技術システムでも社会システムでも)育たない。そこが一番の問題なのです。」(32ページ)
***
TMI、JCO、チェルノブイリなど、過去の事故の見直しも本書の中心であるが、ここは省略して、最後に、田辺の提言をまとめておく。
1)放射性廃棄物を増やさないためにも、現在の型の原子力発電は極力止める
2)停止のさせ方は、運転年数の長い原子炉や、地震などによるリスクの高いものから順番に止めてゆく
3)運転を継続する原発については、しっかりとしたシビアアクシデント対策を義務付け、想定外事象への対応能力を高める
4)もんじゅは制御困難であり廃炉
5)リスクも高く、もんじゅを廃炉にするに伴い、再処理工場の運転を止める
6)今後継続運転をした結果生じた使用済み核燃料はそのままの形で保管する
7)核種変換技術の開発を加速する
8)放射性廃棄物をあまり出さず、事故リスクの少ない発電システムの可能性は推進すべき
8)には例として「トリウム溶融塩炉」と書いてあるが、田辺は本当にそう思っているのだろうか。私のしるかぎり、「トリウム溶融塩炉」はかなり実現が困難である。
***
2011年9月に事故後最初の日本原子力学会の大会が開催されるが、一般研究発表において福島原発事故の発表は田辺の2本を含めて25件、全体の3%にすぎなかったという。
- まやかしの安全の国 ―原子力村からの告発 角川SSC新書 (角川SSC新書)/角川マガジンズ(角川グループパブリッシング)
![]()
- ¥842
- Amazon.co.jp
↧
January 21, 2016, 4:33 am
![]()
みんなに愛されていた八百屋さん。閉店の張り紙に多くのねぎらいの書き込みが。
読んだ本
日本はなぜ核を手放せないのか 「非核」の死角
大田昌克
岩波書店
2015.09
ひとこと感想
本書の中で最も大事なのは書名が「現在形」になっていることである。まだ続いているのである。そして本書ではその経緯を掘り下げている。ディテールは興味深いが全体像には届かず、やや不鮮明に終わっているのが残念である。
***
大田昌克(OHTA Masakatsu, 1968- )はジャーナリスト。「日米〈核〉密約」「アトミック・ゴースト」「秘録核スクープの裏側」「日米「核密約」の全貌」など核関連の著書多数。
戦後70年、原発にかぎらず「核」に対してどのように政治的にかかわってきたのか、これまであまり知られていないポイントを浮き彫りにしようというのが本書の狙いである。ただし、あっと驚く新事実というようなものではなく、周縁的な発見もしくは再発見が主である。
特に2009年、民主党政権下で岡田克也外相が進めた日米の密約調査の結果が本書には盛り込まれている。
逆に言えば、日米関係史を「核」の視点から見直したもの、という言い方もできる。
1 沖縄と核兵器
1962年のキューバ危機においては、核戦争が本当に起こりうる一歩手前であったことが、後の証言や資料などにより明らかになっているが、これは米ソ同士の問題であるばかりか、当然米国と同盟を結んでいる国にも影響するものである。
当時の沖縄は米国の施政権下にあり、ここには核巡航ミサイルが配備されており、一触即発の発射態勢に置かれていた。
返還前の本土政府は、沖縄に核が配備されることに対して、見て見ぬふりをし続けたのである。
1962年10月24日、防衛準備態勢(デフコン)は「準戦時」を意味するレベル2にまで引き上げられた。15分で戦闘可能な態勢である。これがレベル1となると「全面戦争」である。
「1962年のキューバ危機時に沖縄の核ミサイルが発射寸前の状態にあった事実は、約1万6000発の核兵器が現存する今日にも重大な教訓を突きつけている。それはミスや誤解、ときには狂気によって起こる偶発的核使用の恐れがゼロではないという現実だ。」(12ページ)
原発もそうであるが、「原因」が何かではなく、何らかのきっかけで、とりかえしのつかないことが発生するリスクを私たちは抱えており、それを防止する手立てを私たちは十分にもっていないということが問題なのである。
これは本土復帰後にも、基本的には変わることがなかった。
「1969年11月の日米首脳会談で、佐藤栄作首相はリチャード・ニクソン米大統領と二つの密約を結んだ。一つは、佐藤が切望した沖縄本土復帰時の「核抜き本土並み」を担保するため、将来の有事における核兵器の再搬入を認めた沖縄核密約。」(18ページ)
ただしこの核「密約」であるが、この「合意議事録」が後の政権に対してまで拘束するものではなかったと外務省有識者委員会は結論づけている。多くの専門家はこれに反発している。
このあたりは「解釈」の違い、もしくは政治的思惑が絡んでいるようだ。
***
表向きは「平和宣言」や「核兵器廃絶」を訴えているのが日本国ならびにそこに住む人たちの思いであると理解されているが、同時に核大国の米国との安保条約によって「核の傘」に入っているという事実、そして政治家や評論家のなかには公然と核武装化をも想定するという二重構造がある。
1957年9月に米軍は演習で核兵器を使用したことが機密文書に記されているという。
「使用」の内容については一切不明である。
これはほんのエピソードにすぎないし、本書にはその他にも、自衛隊が核を想定してさまざまなことを行っていた小さなエピソードが積み重ねられている。
ここで大枠として語られているのは、自衛隊、外務省、その他が、1950年代後半には、将来、核武装をすることが視野に入れられていた、ということである。
ところが同時期には、原水爆禁止運動が市民レベルで盛んになっており、非核三原則もまた、歯止めとして機能した。その端緒は、何といっても第五福竜丸をはじめとした南太平洋における米国の水爆実験による漁船被害である。
整理すると、こうなる。
・米国の核の傘に依存
・被爆国として核廃絶を国際社会に訴追
・軍事用の核については拒絶(非核三原則)
・原発など平和利用については積極的に推進
このそれぞれの項目は相反するにもかかわらず、常に「二本」の線の、都合のよいほうだけを強調してきたのが、これまでの「日本」という国家であったのだ。
ただしこれを「日本」というものの「体質」などに還元できることよりも、一体何が起こってきたのかを、ていねいに振り返ることが重要であると思われる。
たとえば本書では、1950年代半ばの米国側の対日方針について、以下のようにまとめている。
1)放射能への恐怖心を和らげるため、自然界にある放射線に関する情報を発信する
2)日本における平和利用f導入に向けた日米の科学者や実業家による対話を実施する
3)原子力平和利用博覧会の開催を検討する
このうち3)については正力松太郎がCIA要員として一枚かんでいったことはよく知られているが、それ以外にももろもろ動きはあったようだ。
ここでは、桶谷繁雄という、後に東工大教授となる人物をとりあげている。
桶谷は第五福竜丸事故のルポを書きながらも、原子力の可能性を強く訴えていた。彼は金属学が専門なのに、なぜしゃしゃり出たのか、本書は、米国との関係を仄めかしている。
もう一人、西脇安(当時、大阪市立大助教授)も、第五福竜丸事故の死の灰の調査を行った一人でありながら、突如、原発の導入に積極的な意見をもっていた。
また、1954年には放射線被曝量について、日米で「最大許容レベル」をどうするかが議論されはじめる。
これに対して米国川は1956年に「放射能パニックの再発を阻止」(57ページ)することを目指して、「許容線量」を示した。
***
これもまた小さなエピソードだ。1980年、当時の首相は大平正芳だった。核密約のちの一つとして核兵器を搭載した米軍艦船の寄港の黙認(1960年代以降)について、機会があればこれを公開したいと大平は考えていたようだ。
また、2012年には、今度は青森県が再処理を見直そうとした当時の民主党政権につきつけたのは、高レベル放射性廃棄物の受け入れ拒否だった。青森県からの反発で、再処理は見直すことができなかった。もちろんこれも、いずれ問題は再燃するはずである。
さらに例の今後のエネルギーに関して、一度は「脱原発」を明確にしたにもかかわらず、米国からの横やりによって「法制化」は霧散したのだった。いや本当はそれ相応に意義と力があったはずなのだが、その後の自民党政権はこのことに目と向けるつもりはないようだ。
***
原子力平和利用が軍事利用と紙一重であるということは、日本の原子力界にとっては禁句になっている」(122ページ)ことをはじめ、本書全体は、非常に興味深い内容に満ち溢れているが、そうしたもろもろのエピソードを収斂させ、私たちにとって核とは何かという問題の核心に迫るまでには今なお至っていないように思われる。
もちろん、以下のような基本的な理解については、強く賛意を示したい。
「核分裂が引き起こす同根の壮絶なエネルギーを「軍」と「民」に峻別し、前者については「悪」の烙印を押す一方で、後者については「平和利用」の美名の下に、それがもたらす恩恵にどっぷりと全身全霊を浸してきたのだ。」(176-177ページ)
- 日本はなぜ核を手放せないのか――「非核」の死角/岩波書店
![]()
- ¥1,944
- Amazon.co.jp
↧
↧
January 22, 2016, 4:20 am
![]()
マンション建設中。
読んだ本
フクシマ元年 原発震災全記録2011-2012
豊田直巳
毎日新聞社
2012.03
ひとこと感想
原発事故後の1年間、現地を丁寧に取材した記録。写真は多いが、文章が中心。副題には「全記録」とある点に少し疑問が残り、文章も情緒的であるが、「おわりに」に「私的な取材記録」と書かれているように、豊田と出会った人びととの当時の心情がとても切なく響いてくる。
豊田直巳(TOYODA Naomi, 1956- )は静岡生まれのフォトジャーナリスト。代表作に「福島 原発震災のまち」「3・11メルトダウン JVIA写真集」などがある。
***
「原発事故を、当事者以外のジャーナリズムがチェックすることは必要だ」(29 ページ)
これが著者のモチベーションである。
本文中から、日付をもとに内容を拾ってみる(ただし本書にのうち、原発事故にかかわる日時と場所のみ)。
2011年3月12日
国道4号線を北上、ラジオとともに、事態を追いかける
郡山駅前のチサンホテルで仮眠をとる
2011年3月13日
郡山から三春町、田村市を抜けて双葉町に向かう
双葉厚生病院の線量が異様に高い
道路状況により原発付近にまでは向かうことができなかった
引き返してネットで現地の数値を伝える第一報を送る
しかし人々はそうした数値を歓迎しなかった
「「本当のことが知りたい」といいながらも、放射能汚染の実態をしることよりも、「現地で今何が必要なのか、どんな支援体制が必要なのか」ということに関心が向けられる。」(41ページ)
2011年3月22日
双葉町、田村市
2011年3月29日
飯舘村
今中哲二が線量を計っている
今中は28日に現地入りした。その3日前、3月25日には高村昇が飯舘村に入っており、「健康に害なく村で瀬克していけます」と住民300人の前で語ったという。
菅野村長は、測定を終えた今中に村での生活を続けるためのアドバイスを求めた。しかし今中はきわめて間接的に避難を仄めかす、いや直接的に言うにはあまりにも痛々しく、ただただ、間接的に言わざるをえなかったのであろう。
また、その後4月21日にもう一人、杉浦紳也がやってきて、「安全」「子どもたちを外で遊ばせても問題はない」ことを強調する。
ところが翌日、枝野は飯舘村に対して全村避難(計画的避難区域に指定)を指示するに至る。
このときの「光景」が、豊田には見えない「大津波」として感じとられる。
「事態は迫り来る津波と同様に凄まじいスピードと、圧倒的な破壊力で迫ってきた。しかもその大津波はレンズを向けても写らない。」(100ページ)
「それでも私は広がる放射能汚染を止めたいと大それたことを思い、そのために放射能を撮りたいと思ったのだ。」(103ページ)
2011年4月1日
浪江町
2011年4月17日
浪江町島津地区、赤宇木地区
2011年4月18日
南相馬市、双葉町
2011年4月
飯舘村
2011年5月28日
飯舘村
2011年6月
飯舘村、相馬市
2011年7月
大熊町、相馬市、南相馬市、川俣町
2011年9月
飯舘村、川俣町
2011年10月
南相馬市、川俣町、飯舘村
2011年12月
南相馬市、飯舘村、川俣町
除染がはじまる
除染とは、今や、以下のような幅があるものすべてを指す。
・熊手で落葉や枯草をかき集める
・屋根からの雨水を受けるU字溝や道路わきの側溝の蓋を開けて泥をかきだし、建物の屋根や壁を水洗いする
・何年、何十年とかけて「作った土」であり、農作物にとって一番栄養のある田んぼや畑の表土を、大型重機を入れて削り取る (194ページ)
2012年1月
飯舘村
***
豊田は女川原発にも足を運んでいる。
2011年4月8日
「地震で1メートルも地盤沈下したその上に建つ原子炉は浸水し、10か月たった2012年1月も再稼働のメドが立たないでいる。」(60ページ)
***
本書を読んで改めて思うのだが、だれもがこの理不尽に迫ってくる被害に対して、その「加害者」や「責任者」を「国」と呼ぶが、それではあいまいである。
「国」を責める、というのは、かつての「自然の暴威」に恐れおののいていた時代とまったく同じではないか。
「国」というものは「実体」ではない。
もし責任を問うのであれば、それは、もっと厳密に、個人や組織、または、制度や体制など、明確にできるものがあるはずだ。
この点については残念ながら豊田は攻め入るつもりはないようだ。
あくまでも豊田の視線は「被害者」のそばにある。
「除染が本当に有効で、費用対効果としても価値あるものならば、むしろ実施してほしいのは、放射能にふるさとを奪われ、追われた者として当然の願いだ。だが、少しでも現実に目を向けたら、計画は机上の空論に過ぎないのではないかという考えが、住民の頭から離れないのだ。」(189ページ)
***
「私の撮っている写真は原発震災の実態のほんの一部に過ぎないことは知っている。」(216ページ)
であれば、やはりなぜ、「全記録」なのだろうか。
- フクシマ元年/毎日新聞社
![]()
- ¥1,728
- Amazon.co.jp
↧
January 23, 2016, 4:35 am
![]()
某美大の卒制展にあった、猫を模したオブジェ
読んだ本
動物たちの沈黙 ≪動物性≫をめぐる哲学試論
エリザベート・ド・フォントネ
石田和男、木幡谷友二、早川文敏訳
彩流社
2008.09
Le Silence des bêtes
Élisabeth de Fontenay
1998
***
学問の大半は、常に、書かれてきたこと、残されてきたことをふまえて、その内容を検討するということを習慣とする。
この常識を打ち破ったのが、ミシェル・フーコーである。
彼は、「ランガージュに埋め込まれた歴史ではなく、語られなかったことは何かを探ることを、自らの「歴史学」(もしくは哲学的営み)としてきた。
もちろん「語られなかったこと」を語るのは、きわめて困難である。何が語られなかったのか、というのは、言うほど見出すのは簡単ではない。
そこでフーコーは「境界」(リミット)に着目した。
問題の「核心」ではなく、周囲、周辺、極限、そういった部分に目をつけたのである。
名づけられる前の存在、みなが話題にしているものの脇に何気なくあるもの、ほんのわずかなシミ、多くの人が熱狂しているなかで気づかれないで苦しんでいる人、目指されるのは、そうしたものへの「まなざし」である。
「正常」に対して「異常」という分割線を引いたその瞬間から、「異常」は「外部」となり、排除されてしまう。
線を引くことの罪。
確かにフーコーはまず、この問題を「狂気の歴史」の最初の序文において、高らかに書き上げた。
そしてそれ以降も変わらぬ姿勢で、異なる領域においても、同じ方法論で、分割や排除のありように目を凝らした。
こうしたフーコーの仕事をふまえれば、別の領域においても、同様の問題点を発見することができるはずである。
そうしてフォントネが見つけたのが、「人間」と「動物」の区別の問題である。
すなわち、「狂気」を「動物性」と読み替えることを試みているのである。
最初から「動物」と「人間」とはまったく異なる存在である、という主張、そして、逆に、「動物」も「人間」もまったく一緒だ、という主張。フォントネはいずれでもなく、どのように両者を分かつ言説が哲学という知の系譜において展開されてきたのかをたどろうとする。
***
大著(翻訳で800ページ近く)で、とてもではないが全ページじっくりは読めない。
せめて、ダイジェストに、どのような哲学者が登場しているのかだけでも、以下、ピックアップしておきたい。
逆にフォントネがここでとりあげなかったのは、英米系哲学者であり、ほか、ユゴー、コント、ベンサム、ベルクソンであることを、あえて、明記しておこう。その理由は、端的に、自らの関心の赴くままに書いた結果であるとする。
また、「供犠」については、聖書、社会学、人類学のさまざまな文献が登場し、とりわけ興味深いのはバタイユの論であるが、ここでは省略する。
***
ホフマンスタール
フランシス・ベーコンに宛てた「チャンドス卿の手紙」という作品のなかで、倉庫のなかに巣食っているネズミたちを駆除するために毒を流し込んだことに対する後の感情、それは「同情」ではないが、妙な「不安感」を描く。
ドゥルーズ
DVD「ドゥルーズのABC」の「A」は「アニマル」からはじまるが、ここではかなり用心深く「飼いならされた動物」について言及している。それ以上に彼が魅惑されているのはシラミやダニ(ユスキュルが観察した例)やクモである。彼らのもつ「世界」に魅惑されている。だが同時にドゥルーズも猫を飼っていたことがあり、成熟する前に姿を消してしまった。結局その猫は人目のつかないところで死んでいたことから、ドゥルーズはその猫を思い出しつつ、死に方を知っているのは人間よりも動物のほうだ、と述べている。また、画家のベーコンに見出したものも、人間と動物との境界線である。
フローベール
「聖ジュリアン」にはむごたらしく死んでゆく動物がおびただしい数で登場する。
レヴィ=ストロース
「今日のトーテミズム」など、彼の研究や発言には動物が多く現れる。
***
オウディウス
「変身物語」 において「変身」とは、メタモルフォシスであり、生きものについては「エンプシューカ」「アニマンテス」という、いずれも呼吸するもの(魂を備えているもの)とされた。確かに、ギリシア神話には動物が多く存在する。神々、人、動物は相互に行きかう。
ソクラテス以前とプラトン
特にピタゴラス(学派)、エンペドクレス。魂の転生は、彼らにおいては、人間も動物にも起こる。
プロティノス
省略
アリストテレス
「魂について」においては、人間と他の動物と近縁した形で記述している。たとえば、人間とラバが「常に飼いならされた動物」としてまとめられる。しかしこの「飼いならされた」種はすべて、野生の状態でも見いだされ、「馬、牛、豚、人間、、羊、山羊、犬」がまとめられている。ほか「群生」動物には「社会生活に適した動物」と「分散する生活に適した動物」がいるが「人間」はいずれにも含まれる。さらには、「ある目的、共通の目的のために働く動物はすべて社会生活に適している」として、「人間、ミツバチ、スズメバチ、アリ、ツル」がまとめられている。
ストア派
基本的には人間と動物を区別するが、プネウマ(息)においては、両者は共通性をもっているとみなした。
エピクロス派
ボルピュリオスの「肉食の禁忌について」は、ストア派と同様、肉食を肯定的にとらえていた。野生動物と家畜を区別する。
ルクレティウス
省略
オルペウス教徒、キュニコス派、ピュタゴラス派
肉食を拒否。キニク派は「犬儒派」と呼ばれているがこれはたまたま彼らの集まる場所が「キュノサルゲス」(=白犬)のシアン(=犬)だったことによる。そしてキニク派は「生肉を食べる」こと、もしくは、「犬になること」を自他ともに強いたと言える。
テオプラストス
肉食にたいする疑問を投げかける。
プルタルコス
「肉食について」「食卓について」
プルタルコス
「理性を用いる粗野な動物」は、言い換えれば「動物はバカではない」。
フィロン
「徳論」のなかの「人類愛について」において、動物に対する義務の議論を行っている。ストア的な伝統にのっとって、動物をロゴスを奪われた存在とみなしている。
***
アウグスティヌス
生気論者として、動物にも魂があることを主張した。また動物が痛みを感じているとも主張している。
デカルト
死後に刊行された「人間論」の序文(医師のスハイルが書いた)とあとがき(クレルスリエが書いた)によって、生物に関する機械論的解釈が定着した。
マルブランシュ
デカルト主義を定着させ、「真理の探究」において、動物は痛みを感じることはなく機械と同じであるとした。
ベール
「歴史批評事典」の項目「ロラリウス」において動物の魂について言及。
***
フランシス・ベーコン
「ニュー・アトランティス」において、科学実験の結果、さまざまな生きものを生み出している。
プージャン
このイエズス会神父は、動物たちの鳴き声を会話に書き換えている。
ライプニッツ
ロックの生得説にしたがいながらも、人間と動物の区別についてはロックを批判。一方、動物の魂については、初期はデカルト的機械論を支持していたが、その後、機械では説明がつかないことを認めはじめる。
レペ、コンディヤック、ラ・メトリ
「組織」に興味を抱き、人間と動物の交配実験に興味を示していた。
ルソー
一見、ラ・メトリやコンディヤックの主張に似ているように見えるが、類人猿と人間との共通性を強調している。
***
モンテーニュ
「弁護」において、動物と人間の共通性を強調する。
シャロン
「賢さについて」では人間と動物との比較を試みている。彼の弟子のあいだではこの問題をめぐって論争が起こった。
ガッサンディ
「哲学集成」において「獣の魂は何でできているか」という章がある。原子論をベースにしながら、
ラ・フォンテーンヌ
「二匹のネズミとキツネと卵」でデカルトの動物機械論を批判。
ベルニエ
旅で得た知識や経験をもとにガッサンディを再解釈。
ロック
オウムが人間の言葉をしゃべり、ある程度会話を可能にしているという話を聞き、人間の特徴を、言語使用にではなく、外形に求めた。
ヒューム
「人間本性論」には「動物の理性」という章題がある。人間にも動物にも同じように理性や思考力があるが、それぞれのやり方や形が異なると主張。
ビュフォン
哲学者にして博物学者でもあった彼は「動物の本性について」を書き、人間と動物との差異を明確化した。
***
・・・時間切れ、以下、登場する哲学者たちを列挙する
ディドロ
モーペチュイ
エルヴェシウス
ブリエ
ルロワ
マンデヴィル
メリエ
ヴォルテール
ヘルダー
カント
スピノザ
ショーペンハウアー
フィヒテ
ヘーゲル
ベルナール
ダーウィン
ニーチェ
登場する動物たちは約100種類。鷲、蛇、馬がもっとも多い。次いで、蜘蛛。一度だけ登場するのは、アホウドリ、ヒヒ、水牛、シャモア、ノロジカ、、マッコウクジラ、プードル犬、鹿、セミ、タイリクスナモグリ、カバ、蛍、アザラシ、シャクガ、ほか。
ミシュレ
フッサール
メルロ=ポンティ
ハイデガー
レヴィナス
「レヴィナスが動物の問題に不思議なほど無関心であることに驚くべきでは、と私には思えるのだ」(692ページ)
ラヴァーター
アール
リシール
フランク
デリダ
ダストゥール
アドルノ、ホルクハイマー
デーブリーン
I・B・シンガー
グロスマン
プリモ・レーヴィ
- 動物たちの沈黙―“動物性”をめぐる哲学試論/彩流社
![]()
- ¥7,560
- Amazon.co.jp
↧
January 24, 2016, 5:00 am
![]()
読んだ本
息子はなぜ白血病で死んだのか
嶋橋美智子
技術と人間
1999.02
ひとこと感想
母親による、浜岡原発で働き、若くして白血病で亡くなった息子の追想記。年間約5ミリシーベルトの被曝。実際に労災をかちとっている。涙なくしては読めない。
***
著者の長男、嶋橋伸之は、1962年生まれ、工業高校を卒業後、1981年、協立プラントコンストラクトに入社。日立系列の会社で、中部電力の保守や定期検査作業を請け負っている中部火力工事の孫請け、中部プラントサービスの下請け。
ここで新たにつくられた原発部門に配属される。研修先は浜岡原発。
1980年度の被曝線量は、50ミリレム。これは1981年3月23日から31日まで、8日(日曜が1日あるとすれば7日、2日あるとすれば6日分)
勤めてから3年くらいして、「友だちがみんなやめるから、やめたい」(28ページ)と仕事への不満を漏らす。
しかし母親は続けるよう説得した。その後は、特に何も不満を述べることなく働き続ける。
具体的な仕事の内容は、「核計装」班に所属し、原発炉心の燃料の間に挿入されている中性子の柳雄を計測する装置、「インコア・モニター」の保守・点検・管理」(38-39ページ)であった。作業現場は高汚染区域。
途中で主任に昇格。
その後、1984年の定期健診では白血球数が9,400、1988年には増加し(13,800)、通常の約2倍となる。その夏、大量の鼻血を出す。また、2週間近く病に伏せる。
1989年、再び、2週間近く病に伏せる。秋に、白血球数が24,000を超え、白血病と診断される(本人は告知するなと医者が言ったという)。
両親が浜岡へ引っ越し、息子とともに暮らす。
骨髄移植、自家移植の可能性も探ったが、他人の骨髄は合うものが見つからず、自家移植は間に合わなかった。
1989年10月まで約8年半のあいだ被曝労働に従事し、総計50.93ミリシーベルトを浴びる。
1980年度 51ミリレム
1981年度 230ミリレム
1982年度 445ミリレム
1983年度 218ミリレム
1984年度 550ミリレム
1985年度 610ミリレム
1986年度 680ミリレム
1987年度 980ミリレム
1988年度 860ミリレム
1989年度 470ミリレム (4.7ミリシーベルト)
1990年、病院に入院。1991年、白血病により死亡。
平井憲夫という原発の現場監督経験者の人からのアドバイスで、会社に放射線管理手帳の返却を求める。平井は「被曝労働者救済センター」を設立し活動を行っている。
放射線管理手帳の「注意」には「会社を退職する場合は、事業者から、この手帳をすみやかに受取り、保管してください」と書いているにもかかわらず、返却されたのは5か月ほど経ってからだった。
しかも、データが訂正されていた。誰だって原発で働いていて白血病で亡くなり、半年近くも返却されずにいた放管手帳が訂正印や朱の二重線だらけであれば、疑う気持ちが出ることであろう。
しかし平井に見せると、誤記や計算ミスのための訂正であり、かつ、線量としてはそれほど多くはないという見解だった。しかし藤田祐幸に見せたところ、次のように述べる。
「大変な事です。たくさん被曝しています。数値外にも体内被曝といって口や鼻、皮膚から放射能を体内に取り込む事もある。これは只事では済まされない。公開して社会問題化しなければならない」(132ページ)
1993年に労災申請、1994年に認定される。
***
息子の早すぎる死に納得がいかず、さまざまな人に聞いてまわるうちに、次の3人と出会う。
平井憲夫(被曝労働者救済センター、故人)
藤田祐幸(慶応大学)
海渡雄一(弁護士)
その後、労災申請をするとともに、署名運動を行い、40万筆以上が集まり、その後認定がおりる。
「原発で死んだ人はいないと弁解してきた電力会社の嘘が明らかになりました。しかし、国の基準を盾に中部電力は今でも謝罪を拒否しています。
私たちの他にも今までに二人、労災認定されたことが明らかになりました。しかし残念なことに私たちの件以外は公表されておりません。」(12ページ)
- 息子はなぜ白血病で死んだのか/技術と人間
![]()
- ¥2,052
- Amazon.co.jp
↧